それでもなお語りつづけるということ

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304
町山氏のこの記事は名文と思います。
この記事は、それでも自分達は違うという人、傍観者として「やっても無駄」と冷笑する人の影に押しやられていた、虐殺の本質たる「異者への恐怖」を鮮やかに照らし出しました。


ルワンダの虐殺」も「関東大震災での朝鮮人虐殺」も「行動ではなく『生まれ』という人が選択できない条件の差により人が殺害された」という本質において変わりありません。
しかし、その本質から目をそらし、周辺条件の違いによる関係の否定に汲汲として働く人もいます。私にしてみれば、そういう差別の正当化こそが虐殺の背景にあるのですが。
「民族の誰かが差別されても仕方ないことをした」から「同じ民族の誰かが被害にあっても仕方が無い」という理屈が成立するというのであれば、それは同時に先の大戦における「通州事件」やアメリカによる「日本人捕虜の虐待と殺害」や「日系人の収容所送り」や終戦時の「満州居留民への略奪暴行虐殺」も仕方が無いということになります。
馬鹿げた理屈です。「自分達は違う」と思うための最初から結論ありきの逃げ口上。それは己が心を守るために己が行動を正当化する自己欺瞞というもの。


今回の町山氏の記事でも伝わらない人には伝わらないでしょう。それを承知の上でなお語りつづける姿勢は大切と思います。私たちは言葉を通じてわかりあえる人間なのですから。