釣るのが上手い人

醜悪か否かは能力の種類より人の目に映る能力の用法による。何故なら人はそれをもって人の中身を類推するから。

■コミュニケーション能力をウリにする人が醜悪な理由
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060414/1144999515


醜悪なのは「コミュニケーション能力をウリにすること」ではなく、「自らの能力を鼻にかけ、かつ利己的に用いること」でしょう。
「自らの能力を鼻にかけ、かつ利己的に用いること」が嫌悪感を呼びやすいのは、コミュニケーション能力も価値創造能力も問いません。*1
醜悪か否かは、どのような人間の行動に対して人が好意を感じるか、あるいは嫌悪を感じるかといった、人間の好悪スイッチの問題でしょう。
大方の人は自己中心的で利己的な行動に対しては嫌悪を感じますし、博愛的で利他的な行動に対しては好意を感じます。
コミュニケーション能力にしても、価値創造能力は高くても気難しいゆえに誰も間を取り持ちたがらないような人たちを積極的に自己犠牲的に*2取り纏めるという形で運用すれば好意を得られますし美しいと感じられます。
価値創造能力にしても、いかに能力が高くても、その能力を自慢しつつも自らが利益を独占する*3ためだけに用いれば嫌悪されますし、醜悪に感じられます。
人は利益の独占など間接的にでも自ら(あるいは自グループ)の利益を奪う行為に対しては嫌悪を感じますし、自らの損失を省みず他者に利益を配分するような行為に対しては好意を感じます。
この文章の妙は「能力の種類」という直接は好悪と関係ない性質*4を、巧みな例え*5を用いることで、好悪の感情に結びつけていることです。
多分、この人は意図的にこれをやっていますし、おそらく、コミュニケーション能力と価値創造能力を入れ替えても同じような「説得力」を持った文章を綴ることもできるでしょう。*6
この文章は扇動文としてもよくできています。
自らのコミュニケーション能力の低さに劣等感を感じ「コミュニケーション能力の高い人々」に自らの「利益」を不当に奪われていると感じている人、特に現状の価値創造と価値分配の「不公正な関係」に怒りを感じている人*7はこの文章に強烈に惹かれる可能性が高いと思います。人は自らの劣等感や嫉妬や怒りといった感情に「正義」を与える言葉に弱いものですから。
また、「コミュニケーション能力をウリにする人」と自任している人はこの文章に強い反発を覚えるでしょう。
同じ人間の間に「コミュニケーション能力をウリにする人」と「そうでない人」の境界を作り、双方の感情を煽るよくできた文章です。
実に上手い釣りですね。この文章に対する反応を見て著者はほくそ笑んでいるでしょう。
まさに劇場。踊るのはこの文章に反応する人。観客は著者。


まあ、こう書いてて、私が明後日の方向に深読みしすぎなだけだろうと思ったりもしているわけですが。

*1:こういう分類自体が相当乱暴と思いますが。

*2:好悪スイッチ的にはここが重要。他人の自己犠牲は自分の利益。

*3:好悪スイッチ的にはここが重要。他人の利益独占は間接的に自分の損失。

*4:現実は適切な創造と適切な分配を必要としています。価値創造だけでも価値分配だけでも社会は回りません。かといって両者があっても関係が不当であれば、そこには不公正に対する怒りが生まれます。正しい競争とは創造と分配の最適解を求めるものというものでしょう。

*5:多くの人に「ああ、そういうのあるある」と思わせるような例え。

*6:実際に自分自身の文章に対する反論文としてアップするかもしれません。

*7:私にも価値分配側が不当に利益を独占しているように見えます。