「少年の凶悪化」という虚妄

円満な社会の構築にあたり道徳は重要な要素だが、こういうのはいただけない。


この数年、凶悪な少年犯罪の報道を目にすることは多い。そして、そういう「少年の凶悪化」に対抗するために少年に対する道徳教育を求める主張を目にすることも多い。
しかし、刑法犯少年の検挙人員は減少傾向にあり、現実は「少年の凶悪化」というマスコミの作り出す印象とは異なる。
http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen28/20060216.pdf
マスコミは犯罪をおこした少年の良心の欠落ぶりを示す関連報道を充実させることで「少年の凶悪化」を強調しているが、そういう良心の欠落した少年は近年の傾向ではなく昔からいた。過去の凶悪な少年犯罪事件がそれを示している。
そもそも良心が欠落した人間が存在するのは少年に限ったことではない。いくつかの書籍に記述されていることだが、人間の数パーセントは生まれつき良心を持たない。
そういう生まれつき良心の欠落した人間の犯罪を少年だからといって殊更大きく報道しても「少年の凶悪化」を示すことにはならない。それはただの印象操作であり、少年を正義の名の下に抑圧すべき「怪物」とするための宣伝だ。
少年が「怪物」なのではなく、人間の中に生まれつき良心の欠落した「怪物」が存在するのが現実だというのに。
「少年の凶悪化」に道徳教育で対応することにあまり意味は無い。道徳教育はそういう「怪物」を抑圧するためには役に立たないからだ。道徳は人間の良心を前提としたものであり、生まれつき良心の欠落した人間には意味をなさない。ただ、それは少年という「世代の異なる異文化の存在」に「大人」たちの文化を押し付け、それをもって「大人」を安心させる効果はあるかもしれない。