感情論による正当化と感情論の正当化

「保守主義 拡大より空洞化が問題」 - Munchener Bruckeコメント欄より。

# hodasi 『私も、国際連盟脱退を支持した大衆などには批判的ですが、ですが、しかし、明治維新から続く、「歴史の流れ」が、全体主義政権が誕生したのも事実です。そして、その流れは、日本が単独でそうこうできるものではなかった。当時の国際バランスの軸に参入するには、力、つまり、軍事力、植民地、石油が必要だった。戦後、自称・反省家が、こういった事実を無視して、ひたすら昭和避難を行ったから、貴公のいう「ネットウヨ」が生まれたんじゃないでしょうかね。』


# kechack 『 単一事件と違って、歴史というものは帯のように流れているものでありますから、単純に正しい間違いいう議論はし難いものだと思います。
 戦前はすべて悪的な言論のアンチテーゼとして戦前を肯定する議論が出たのでしょうが、両方とも間違いというか、そもそも乱暴すぎて議論にならないと思います。
 ただ明治維新から全体主義への道の流れは「仕方なかった」といいう立場は私は取りませんし、「仕方なかった」的な言説を振りまくのはまるで保守主義者の証であるかのような現状には警鐘を鳴らさずにはいられません。
 戦後の保守主義者の多くが、戦前の日本の失敗に関して総括する優れた書物を出していますので、読んでもらいたいものです。』


# hodasi 『仕方なかったと言うより、必然に近かったというところです。日本を悪とするなら、日本は弱い悪で、アメリカは強い悪だった。他の白人社会は日本と同じ程度の悪だった。他の有色人種国家は話になら名無かった。こうなると、日本が、善になっても無意味ということです。生き残るには同じ土俵に立つか、黙って支配されるしかない。戦前を反省すると、結局、「いちかばちか、ハル・ノートをのんで、アメリカに全てをゆだねる」という選択肢ぐらいしか出てきません。
それに、ここまで書けば、分かりますが、この意味で、戦前を最も反省しているのは、親米政策を取っている自民党政権になります。真生保守主義については心情的には賛成しますが、石油の確保と、アメリカに対して、勝てないまでも、交渉力になる程度の軍事力を担保としないと、理想論に過ぎないといったところです。ただ、学術的には理想論は認めるといったところです。


>>戦後の保守主義者の多くが、戦前の日本の失敗に関して総括する優れた書物を出していますので、読んでもらいたいものです。』


あまりに抽象的ですね。具体的に書物のタイトルをあげたらどうですか。これでは、この文章に何の意味も感じえません。』


# hodasi 『加えて、
誰かの意見を借りて、私へ何か伝えたいなら、
せめてその概論だけでも自分で説明できるようになり、加えてそうして下さい。


上のレスでは、貴方が、
「戦後の保守主義者の多く」
の権威、威光を借りて、私を押し付けようとしているだけですよ。』


# D_Amon 『hodasiさんは石橋湛山評論集を読んでみてはどうでしょう。(もう読んだことがあるかもしれませんが)
これを読めば当時の「歴史の流れ」が「必然」でなかったことが分かってもらえるのではないかと思います。
当時の日本は大正の時代からいくつかの重大な選択肢において悪い方を選択しつづけることによってどうしようもない状況に自ら嵌っていったのです。ハルノート以前に、当時の日本が中国において宣戦布告も無しに戦争状態を拡大していたこと、中国での日本の振る舞いは諸外国から無法者と見られるものだったことや、仏印進駐がアメリカにどのように見られるものだったかということが分かっていればそういう歴史の見方はしないと思うのです。当時のアメリカにしてみれば日本という無法者国家に対し経済制裁を課したら、日本は無法を改めるどころか彼我の力量の差を無視して暴発したといったところでしょう。(日本にしてみれば「英霊の犠牲」によって獲得した権益を手放すことは「不可能」で、ハルノートは呑めず暴発は「必然」だったにせよ、そして当時のアメリカの政策担当者の一部がそういうことも理解していたとしても)
石橋湛山は純然な経済的視点から、日本の植民地獲得政策に利が無いこと、貿易立国の方が効率が良いことを指摘しています。日本には当時から植民地を手放しての貿易立国という選択肢があったのに、それを選ばなかったのです。
日中戦争から太平洋戦争への流れは「必然」ではありません。日本が無謀な支配地域拡大の結果、自滅したのです。
所謂「ネットウヨ」はトリミングされた情報を鵜呑みにして珍妙な歴史観に染まってしまうような歴史に関する基本的知識を欠いた人々ではないかと思います。』


# hodasi 『石橋湛山ですか。彼の名前が出たので少し余談から、


彼は、日独伊三国同盟締結に当たって、
「世間には、新聞に現るる欧州の戦況を読み、その戦争は、間もなく独伊の全勝を以て終結するかに思う者も少なくないであろう。・・・けれども実際の戦局が果たしてどう転回するかは、そう易くは予断できない」

と言っていますね。この後、彼は全く弾圧のようなものが無かったわけではありませんが、こういう発言ができたことは事実です。教科書などが教える、「政府の圧制で、新聞社も政府を支持した」というニュアンスとは酷く違いますね。


さて。
まず、植民地支配の他にも日本が生き残る道があったことは、確かに一つの可能性として妥当性を持ちます。しかし、それは「歴史のIF」に過ぎません。
今後の参考にはなりますが、それを持って、先人を非難するのは愚だと思われます。


また、
>>(日本にしてみれば「英霊の犠牲」によって獲得した権益を手放すことは「不可能」で、ハルノートは呑めず暴発は「必然」だったにせよ、そして当時のアメリカの政策担当者の一部がそういうことも理解していたとしても)


あなたも認めているように、アメリカ人に、日本がその条件をのめない事はやはり知識としてあったわけです。それにも、関わらず、そうした事は、「平和を愛する」者と自負するならば非難されるべきです。私の主張どおり、「日本が悪だったおすれば、アメリカは強い悪に過ぎない」とするなら、その必要はありませんが。


国際連盟脱退を支持した大衆、板垣退助などが築き上げ、大正デモクラシーを経て、ある程度完成されていた、政党政治をあざ笑い、軍事政権への大衆の支持を煽ったマスコミ、そして軍事政権、確かに個々に一定の責任はあります。
ですが、それより前に激動の国際状況を生き抜き、そして死んでいった先人に対する、当然の感謝が必要なのであり(故に、靖国神社護国神社への参拝はその具象になり、当然のことと言えます)、過去の責任はその上で、されるものです。


過去の反省による、今後の昇華は必要です。小国日本主義も選択肢の一つであることは確かです。だが、しかし、戦後の先人への避難ばかり、という風潮は、愚である。
私の考えはそういったものです。』


# D_Amon 『>この後、彼は全く弾圧のようなものが無かったわけではありませんが、こういう発言ができたことは事実です。教科書などが教える、「政府の圧制で、新聞社も政府を支持した」というニュアンスとは酷く違いますね。


これだけをもって「政府の圧制で、新聞社も政府を支持した」を否定するのは、知っててやっているのならば情報のトリミングがひどすぎますね。実際に湛山の評論を読んでいれば彼がNGワードを避けて慎重に言葉を選んで書いていることが分かります。
加えて圧制はこの後もどんどんひどくなっていきます。湛山の評論の言葉の選び方から当時の圧制がどんどんひどくなっている様子が滲み出てくると言った方がいいような状態。
「ある人物ができる限り圧制に対抗した」ということは「圧制が存在した」ということの証明ですよ。
教科書にあるような圧制があった証拠としては竹槍事件でも挙げておきましょうか。言葉を選んで書いてさえ懲罰的徴兵がされるというようなことがあったのです。他にも言論弾圧の手段として政府に迎合しない出版社には統制経済のもと紙を配給しない等の嫌らしい方法もとられたのです。
湛山はできる限り圧制に対抗し、他者にもできる限り対抗することを勧めましたが、それをもって教科書にあるような圧制の存在を否定することはミスリードがひどすぎます。


>まず、植民地支配の他にも日本が生き残る道があったことは、確かに一つの可能性として妥当性を持ちます。しかし、それは「歴史のIF」に過ぎません。
>今後の参考にはなりますが、それを持って、先人を非難するのは愚だと思われます。


論点がずれてますよ。問題にしているのは必然であったか否かです。貴方は必然に近かったと主張したわけで、その主張を裏付けるためにはそれ以外に殆ど選択肢が無かったということを示さねばなりません。これでは貴方は選択肢はあったことを認めてしまっているわけで、必然という貴方の主張は偽となります。
選択肢はあったし、それを選ぶこともできたのです。それも日本が単独でどうこうできた選択肢です。


>あなたも認めているように、アメリカ人に、日本がその条件をのめない事はやはり知識としてあったわけです。それにも、関わらず、そうした事は、「平和を愛する」者と自負するならば非難されるべきです。


貴方としては無法者国家に経済制裁を課して屈服か暴発かの二択を迫るのは「平和を愛する」者と自負する人は非難しないといけないというわけですね。その理屈でいけばイラク北朝鮮への経済制裁を非難した人々は正しい行いをしたことになるわけですが。
当時のことに関していえば、アメリカとしては日本がハルノートを呑んでも良かったし呑まないでも良かったのです。そういう二択を迫られるような状況に陥っている時点で恥ずべき落ち度ですね。で、私はその落ち度を問題にしている筈ですが。そういう状況に陥るまでには色々な選択肢があり、ハルノートをつきつけられる状況になることは必然ではなかったのです。
ハルノートの件にしても一部の政策担当者が日本は権益を手放せずに暴発するであろうことを知っていたとしても、大方のアメリカ人は理性的な判断ができるのであれば日本は屈服するだろうと考えていたわけです。大方のアメリカ人にとって真珠湾奇襲は卑怯な騙まし討ちですよ。それも、無法者に無法に得た権益を手放せと言ったら逆切れされての。
当時の日本は大方のアメリカ人の考えとは異なり理性的な判断ができない国だったということです。そういう理性的な判断ができない国というのはどうしようもない国だと私は思うのですがね。
戦史などで当時の日本のどうしようもなさを見ると、経済制裁に対して屈服も暴発もしないという選択肢を選んでいる現代の無法者国家は当時の日本よりは理性的判断ができている国と思いますよ。それくらいどうしようもない。
あの愚を愚と言わずして何と言おうか。こういう愚を愚と言うことが愚であり否定すべきことだというのであれば、それはそれで仕方ありませんが。まあ、それは過去に学ぶ姿勢ではないでしょう。
「平和を愛する」者という表現に貴方の政治的バイアスと揶揄が透けて見えますが、私自身は手段としての軍事力を否定しない人間です。ただ、こういう揶揄は心底くだらないと思いますね。
私にしてみれば貴方は過去の事実に対してドライに割り切れずに感謝とかどうとか感情や思い入れで判断力を鈍らせている人間に見えます。「感情の錬金術」に嵌っているのではと危惧しますので高橋哲哉の「国家と犠牲」をお勧めします。
愚を愚と認め、非難すべきを非難し、同じ過ちを繰り返さないための教訓として語り継ぐ方がよっぽど先人の犠牲を無駄にしない行為と私は思いますよ。』


# hodasi 『>>「ある人物ができる限り圧制に対抗した」ということは「圧制が存在した」ということの証明ですよ。


軍事政権に、圧制があったのは事実でしょうが、それが教科書が教えるほど酷かったものでなく、現に反意を表明できたという事です。ここについては、現状の教科書表記に問題があるのではないかという表明ですね。


>>論点がずれてますよ。問題にしているのは必然であったか否かです。貴方は必然に近かったと主張したわけで、その主張を裏付けるためにはそれ以外に殆ど選択肢が無かったということを示さねばなりません。


必然と言うのは、明治維新からの先人の努力に敬意を示せば、ということであって、「その選択肢を選んだ事は必然」ということです。
確かに、「後から考えれば」、「ifと考えれば」他の選択肢にも妥当性がったことは確かで、その意味では、今後の参考にはすべきです。
しかし、当時を生きた、「そのとき一回きりの場」を生きた人がその選択を取ったことは致し方ないこと、ということです。
大衆もそちら側を支持していました。植民地や租借地についての大衆の認識は、日露戦争終結時などの大衆の行動を見るのがいいでしょうね。


>>ハルノートの件にしても一部の政策担当者が日本は権益を手放せずに暴発するであろうことを知っていたとしても


だから、アメリカは知っていた事は明白なんですよ。
それをもってすれば、アメリカにも
「戦争をしてもよい」
という意志があったことは、確かで、
少なくとも「日本は悪い国で、連合国に解放された」というような歴史認識東京裁判史観とか言われますね。
こういった認識は、間違いであるという事です。
私の最終的な主張は今も昔も国際状況は未だ、闘争状態であるから、それを認識し、交渉に必要な軍事力は持つべきといったところで、今の日本の(国民の)認識がそこにいたっていないと感じるわけです。


>>「平和を愛する」者という表現に貴方の政治的バイアスと揶揄が透けて見えますが、私自身は手段としての軍事力を否定しない人間です。ただ、こういう揶揄は心底くだらないと思いますね。


それは貴方のただの深読みです。
私は「国際社会は今も昔も闘争状態」という事を言いたいだけであって、それ以上の事を言うつもりは泣く、その反意語としてその表現を使ったまでです。


>>愚を愚と認め、非難すべきを非難し、同じ過ちを繰り返さないための教訓として語り継ぐ方がよっぽど先人の犠牲を無駄にしない行為と私は思いますよ


ですから、それ自体には否定しません。
ですが、先人への敬意というのは、道徳レベルで必要であって、
靖国神社参拝へのあれだけの反対が国内であったことを目の辺りにして、どうもそれが忘れられているのではないかと感じたということです。
私は東條秀樹を尊敬していますが、首脳者としての彼の責任は否定しません。
彼は、国内で公正な方法で裁かれたなら、自らその報いを受けたでしょうし、また生前も、戦後に報いを受けると誓っています。
これは、空想に過ぎませんが、彼や他の方々が、自ら、報いを受ける瞬間を、涙をながしながら見届け、今後の日本のために過去を悔い、未来に生かしていくことが日本の精神だ、ということです。』


# D_Amon 『まずはアンテナにひっかかってなかったためレスが遅くなったことをお詫びします。


>軍事政権に、圧制があったのは事実でしょうが、それが教科書が教えるほど酷かったものでなく、現に反意を表明できたという事です。ここについては、現状の教科書表記に問題があるのではないかという表明ですね。


竹槍事件をスルー。


>必然と言うのは、明治維新からの先人の努力に敬意を示せば、ということであって、「その選択肢を選んだ事は必然」ということです。


「先人の努力に敬意を示せば」「その選択肢を選んだ事は必然」というのはただの感情論ではないですか。
論理的には全然必然ではありません。


>それをもってすれば、アメリカにも「戦争をしてもよい」という意志があったことは、確かで、少なくとも「日本は悪い国で、連合国に解放された」というような歴史認識東京裁判史観とか言われますね。こういった認識は、間違いであるという事です。


アメリカに戦争してもよいという意思があったことは間違いの論理的根拠になっていません。
無法者国家に対する交渉は、それが決裂した場合は戦争になる覚悟がなければ話にならないでしょうに。


>ですが、先人への敬意というのは、道徳レベルで必要であって、靖国神社参拝へのあれだけの反対が国内であったことを目の辺りにして、どうもそれが忘れられているのではないかと感じたということです。


これまた感情論ですね。
先人への敬意というのならば、国家の犠牲となった先人への敬意があるからこそ私は戦死を顕彰することで犠牲者の存在に対する戦争指導者への批判を逸らし「英霊の犠牲を無駄にしない」という名目で無謀な戦争拡大の心理的装置を担った靖国神社の欺瞞を批判し参拝に反対するわけです、と参拝反対の理由にも使えますし私にしてみればこっちの方が妥当。


全般的に問題となる事実の無視と感情論による思考停止が占めていて論理的ではありませんし誠実でもありません。
問題があるのは学術的な歴史認識ではなく貴方の価値観の方でしょう。』


# hodashi 『どうも、貴方の文章には、私の人格否定の色が強いですね。
まあ、それはいいんですが。
>>英霊の犠牲
当時までの流れの中では、その配慮も理解の余地があったわけです。
今後は、それを反省しなければいけませんし、
同じような理由で政策を誤ってはいけないのはその通りです。


>>全般的に問題となる事実の無視と感情論による思考停止が占めていて


ですから、
まず、土台として、我々は伝統の上に、
反省すべきところは、反省して、変えるべきところは変えて、
今後の政治を作っていかなければいけません。
それは、伝統を否定・破壊することではなく、
その上に築いていくことです。


それには、先人への感謝がまずあり、
その上に、貴方も言う、「事実」をみつめることが必要という事です。
既に述べましたが、
確かに、A級戦犯となった方々は、否定しようも無い罪を犯しています。
東條にいたっては、戦前の時点で、戦後の罪の清算を誓っています。
その事実を、私は無視しません。
しかし、それでも、日本史の中で生まれた指導者には変わりありませんし、大衆も全く軍事政権を支持しなかったわけではありません。


その上で、指導者たるかれらは、自分の責任はもちろん、大衆の責任も、マスコミの責任も全て被って、罪をつぐなわければいけない。
つまり、事実としては、大衆責任論では駄目です。
しかし、その事実の上で、
心としては、大衆も、マスコミも反省し、
全ての罪を被って死んでいった者、もちろん、戦場で命を散らしたもの、また間接的に死んだもの、
そして、全ての先人に感謝しなければいけないという事です。


その姿が見られれば、
貴方のおっしゃるような、事実に基づいた、歴史の反省には否定しません。』


# D_Amon 『人格否定しているのではなく、論理的な対話が望みなら感情論は抜きにしなさいというだけの話です。
結局、貴方の意見は
先人への感謝という感情>>過去の事実とそれから導き出される論理
に集約されているわけです。
で、事実として必然でない過去の日本の選択を感情論でもって必然としているから話にならないと。
第二次世界大戦における大日本帝国が感情論でしか正当化できない代物というのであれば、それはそれで仕方ありませんがね。私にしてみればそういう感情論で事実の方を捻じ曲げるような人とは論理的な対話は望みようがありません。
先人への感謝にしても、敗戦を先延ばしにして多くの国民を無駄死にさせた戦争責任者にまで感謝しろといのは普通に暴論というものでしょう。ある種の宗教の信者がそういう信仰を持つことまでは否定しませんが。』


# hodasi 『まず、返事に時間がかかったことをお詫びします。
私生活の事情のために、遅れました。


>>ある種の宗教の信者がそういう信仰を持つことまでは否定しませんが。


こういう部分に人格否定を感じますね。


>>人格否定しているのではなく、論理的な対話が望みなら感情論は抜きにしなさいというだけの話です。


最初からもう一度、読み返してみましたが、
要するに、論理的とは、
私が、「必然」といったことを訂正しろ、ということでしょうか。
確かに、選択肢としては他の選択肢もあったことは確かですから、その点では必然ではないですね。
そういう意味では訂正します。


ただ、貴方は、感情論を否定していますが、
政治も結局、人がするものである以上、
感情抜きには成しえません。
要は、歴史の反省には、情も考慮すべきということです。
情を考慮すれば、
あの選択肢も必然だったということです。
確かに完全に、情を廃し、
論理だけで考えれば必然ではないですね。
それは確かです。


>>先人への感謝という感情>>過去の事実とそれから導き出される論理に集約されているわけです。


されませんよ。
まず、先人の感謝があり、その上で反省というわけです。
土台と「>」という記号は違うものです。、
そういう単一的な、決め付けが、論理的なんでしょうか。
それとも、土台という言葉に固執しているのですか。
感謝と、反省はべつのもので比較することはできないということです。


>>敗戦を先延ばしにして多くの国民を無駄死にさせた戦争責任者にまで感謝しろといのは普通に暴論というものでしょう。


確かに、その責任はありますが、
それは散々、上のコメントで私も認めていますが。
しかし、軍事政権も結局は、大衆民意に後押しされた部分も否定はできないということです。
「あの方達は選択は間違えたが、あの国際状況の中で、一つの道で、日本のために行動した」という事です。
その道が、間違いであったことはそうですが、
しかし、それでも日本を憂いたことは否定できません。
今後、私達は、その「憂い」の感情が暴走しないように、過去から反省すればいいということです。』


# D_Amon 『>ただ、貴方は、感情論を否定していますが、政治も結局、人がするものである以上、感情抜きには成しえません。要は、歴史の反省には、情も考慮すべきということです。情を考慮すれば、あの選択肢も必然だったということです。


まず、貴方自身の感情論と当時の政治の感情論を分けるべきですね。
貴方が「先人への感謝」という感情論を用いることと、当時の政治において「英霊の死を無駄にしないため」とか「何々に屈するのか」とかの感情論が用いられたことは別です。
そして、私は前者を批判したわけです。前者と後者を混同してはいけません。
貴方のそれは「先人への感謝」をもって戦争責任者への怒りを封殺する論法なわけですが、私はそもそもそういう感情を問題にしておらず事実としてどうかだけを問題にしているわけです。感情を持ち出せば、私は当時の戦争責任者や日本軍の体質に怒り心頭ですよ。不毛だから基本的にしませんがね。
その上で、後者に関しては情に流されて失敗したことを反省するならば、情に流されることを否定する方が当然と思います。それを仕方ないというようでは何度でも同じような過ちを繰り返すでしょうね。


>まず、先人の感謝があり、その上で反省というわけです。土台と「>」という記号は違うものです。そういう単一的な、決め付けが、論理的なんでしょうか。それとも、土台という言葉に固執しているのですか。感謝と、反省はべつのもので比較することはできないということです。


どうにも分かってもらえないようですね。先人への感謝と過去の事例を吟味し批判することは別々のことです。その別々のことに対し「先人への感謝を土台に」という話を持ってくるのがおかしいわけです。結局、貴方の論法は「先人への感謝」を免罪符にして大日本帝国への手厳しい批判を封じようとしているものなわけで、その意味において「土台」だろうが「>」だろうが関係ないですね。


>しかし、それでも日本を憂いたことは否定できません。今後、私達は、その「憂い」の感情が暴走しないように、過去から反省すればいいということです。


その「日本」に含まれていたものは何ですか?
一部の特権階級の保身のために多数の一般国民を犠牲にすることが普通に行なわれたことから、その「日本」の中には一般国民は入っていないのではないでしょうか。


それと、貴方は「太平洋戦争において日本はアメリカにはめられた。はめたアメリカが悪い」と認識しているようですが、そもそもの原因は日本の中国への侵略と仏印進駐にあるわけで、日本の方がアメリカとの戦争を避けられない方向に迷走したんです。』

石橋湛山言論統制に関する言葉は、後の展開を考えれば言論に対する弾圧がどうしようもなくなる前にできるかぎり対抗しなければならないという教訓となっていると思うのですが、それが「言われるような言論統制は無かった」という証拠として解釈されてしまう不思議。
感情論の問題は特定の思想に感化するための感情の利用の問題も含んでいることの再確認。