アメリカとの戦争も覚悟の上だった南部仏印進駐

歴史群像太平洋戦史シリーズ 奇襲ハワイ作戦P154-155より。

一般に、海軍は陸軍にひっぱられて、いやいやながら戦争に突入したのだという説が一時横行した。しかし、事実はかなりちがっているので、海軍部内にも陸軍に負けず劣らずの血気盛んな面々が存在した。
下剋上はべつだん陸軍だけの専売特許ではなくて、海軍部内においても分裂と混乱はあって、同様に強力かつ確固としたリーダーシップを欠いていた。そうして、確固とした勝算はむろん、終戦にいたる明確な見通しもないまま、「戦争決意」のムードに流されていった格好であった。
ひらたくいえば、海軍において対米戦を決意したのは、中堅層のほうが上層部よりも早く、同じ上層部でも永野をはじめとする軍令部首脳部のほうが海軍省の首脳部よりも早かったといえる。たとえば軍令部戦争指導班大野竹二大佐、軍務局第二課長石川信吾大佐など、「省部の中堅俊秀」を自任する連中が、「もうやるべきだ、負けはせぬ」などといき巻き、ズサンな戦争準備のプランを立案し、やがては上司に決裁をせまることになった。そんな彼等の突き上げが、永野ら首脳を「戦争決意」に追いこんだ形跡はたしかにある。

南部仏印進駐を決裁

永野修身が少なくとも表面上、その態度を硬化させたのは、昭和一六年(一九四一)六月中旬ごろのことであった。米国政府がわが国に対してさまざまに圧迫の度を加えてくるなかにあって、永野は七月二日決定の、世界が注目していた南部仏印進駐の決裁をあたえる。そしてそのおり、「これでアメリカと戦争だ」とつぶやいたという。
永野以下、軍令部当局および海軍省の中堅幹部が、アメリカから全面禁輸の返礼を受けるのを覚悟の上で南部仏印進駐にふみきったことはあきらかである。
在米日本資産の凍結令が発令された七月二五日、永野修身は、わが国の首を締めつつあるアメリカの「鉄鎖を切断するには、戦争で結着をつける以外に道はない」と語ったが、その鉄の鎖は、八月八日石油の全面禁輸が発動されるにおよんで完成をみたのであった。
(強調は引用者による)

引用文が示すように事実上対米開戦を決定した人々は南部仏印への進駐がアメリカとの戦争の原因になることを知っていたわけです。
何故、こういう文を引用したかというと感情論による正当化と感情論の正当化 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかに転載したhodasi氏の以下の発言などに見られる「アメリカにはめられた」論のバカバカしさを指摘するため。

あなたも認めているように、アメリカ人に、日本がその条件をのめない事はやはり知識としてあったわけです。それにも、関わらず、そうした事は、「平和を愛する」者と自負するならば非難されるべきです。

日本人には日本の南部仏印進駐が対米戦争につながることが知識としてあったわけです。それにも関わらずそうしたことは、以下略。


何故、日本軍が南部仏印に進駐したかといえば、目的の一つは米英の中国(国民党)に対する補給路を断つため。*1
何故、米英が中国を支援していたかといえば、日本が宣戦布告もせずに中国を侵略していたため。
何故、日本が日中戦争において宣戦布告をしなかったかといえば、アメリカが中立法を適用することを恐れたため。日本は石油などの戦略物資をアメリカに依存しており、中国に宣戦布告することにより正規の戦争状態に突入することでアメリカが中立法が適用し、アメリカの日本に対する輸出が停止されると国が立ち行かなくなってしまいますから。
因果を辿れば日本は宣戦布告無しの日中戦争からなし崩し的に対米戦争に突入していったことが分かります。こういう歴史の流れから見れば第二次世界大戦における日米戦争はアメリカにはめられたというより日本がそういう方向に迷走したというものでしょう。まあ、こういう歴史の流れの中から因果を無視してハル・ノート前後の対米交渉の部分だけを切り取れば、「日本はアメリカにはめられた被害者」というように見せかけることもできますし、そういうのを鵜呑みにしてしまう人もいるでしょうが。

*1:他に資源獲得とか南進の準備とか複数の目的があったわけですが