二つの判断基準

人がある話を受容するか拒絶するかの判断基準は極端な話、二つだけです。それは感情的な快・不快と論理的な正・誤。
この二つの判断基準は人の心の中に混在しています。
それゆえ人は、論理的に正しくても感情的に不快な話に対しては拒絶するために論理的に誤っていると思い込める理屈を捏ねたり、論理的に誤っていても感情的に快な話に対しては受容するために論理的に正しいと思い込める理屈を捏ねたりすることがあります。
人は論理より感情を優先することが往々にしてある生物です。「人は信じたいものを信じ、信じたくないものは信じない」という言葉がでるわけです。
それは論理的な正しさだけでは人を動かせないことがあることを意味します。
また、それは論理的に誤りでも相手にとって感情的に快であれば、話を受け入れさせることができることも意味します。例えば、以下に引用するコメントのように。

523 名前:無名の共和国人民 :07/05/08 03:09:51
http://blog.goo.ne.jp/littorio/e/ed90a12dad6eb282ed6fef1548d1f5ec
>学がある左翼は去り
>学の無い左翼が病気のように吠え
>右翼が武器を捨て、知性をつけ書とペンを持った
>古い学の無い右翼は右翼である事を否定された


こんな右翼マンセーレスに青字付けるなんて
littorio君の程度が知れるねw

http://yy31.kakiko.com/test/read.cgi/x51pace/1166956891/523

このコメントで引用されている文章は「学がある右翼」と自己認識している人物にとって快な話で構成されています。この文章の論理的な正・誤については言うまでもないでしょう。
こういう文章を喜んで受け入れるということは、本人がどう主張していようと本心では自らを右翼と認識していること、論理的な正・誤ではなく感情的な快・不快で物事を判断していることを示しています。
人はこのように自らにとっては感情的に快な情報を精査せずに受容してしまうことがあります。
こういう感情的な快・不快で物事を判断する人を動かす技術の基本は、相手が気持ち良く感じるように話を組み立てること、どうしても不快な話を受け入れさせねばならない場合は不快感を可能な限り小さくすることとなります。
そして、世の中にはそのためのノウハウを集めた本もあります。D・カーネギーの「人を動かす」がそれです。
人を動かす 新装版
この本には対立を避けつつ相手に感情的に受け入れやすい形で話をするノウハウが記述されています。
「人を変える九原則」であれば、まずほめる、遠まわしに注意を与える、自分のあやまちを話す、命令をしない、顔をつぶさない、わずかなことでもほめる、期待をかける、激励する、喜んで協力させる、というように。
紹介しておいてなんですが、私はこの本に載っていることを文字通り「人を動かす」ことに用いることをお勧めしません。
むしろ、この本は感情に訴えかける技術を利用して人を操作しようとする手法に対する対抗知識を得るために読むべきだと考えています。手口を知ること自体がこのような人心操作技術に対する防御手段になるからです。*1

課題

この二つの判断基準に従って考えれば、人に受容されやすい宣伝が満たすべき条件も見えてきます。
感情的に快な話であること。不快を避けられない場合は、それを最小限にとどめる話にすること。
論理的に正しいこと、あるいは論理的に正しくなくても詭弁などで論理的な正しさを装うこと。


これらの条件から、ある種の宣伝が人をひきつける理由も見えてきます。
選民思想は気持ちが良い。自己を偉大なる集団の一員とみなすことだけで優越感に浸れるから。
レイシズムは気持ちが良い。他者を愚劣なる集団の一員とみなすことだけで相対的に虚栄心を満たせるから。
歴史修正主義は気持ちが良い。凡庸なる自分を特別な知識を持っている特別な自分にしてくれるから。


さらに、これらから宣伝に扇動されないための課題も見えてきます。
話の感情的な快・不快に惑わされないこと。
いかに論理的に正しく感じられても、ついていけない話は拒否すること。「詭弁論理学」にも示されているように。

*1:こういう考えをしているので、私は各所で見るカーネギーの言葉を受け売りしている人に対して微妙なものを感じてたりします。