「扇動されやすさ」が克服可能かという賭け

扇動されにくい群衆を求めることとは - Flying Floppy Waferに対しての応答です。

「真の」民主主義などと言ってしまう時点で私はこのひとは理想を追い現実を見ない人だと判断するが、民主制もいわば政体の選択肢の一つにすぎないのであって、むしろ民主制の欠点として、プロパガンダに弱いことが上げられるだろう。

まず、民主主義の辞書的な意味は「人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態」(「大辞林 第二版」より)となります。
人が「扇動されやすさ」を克服できず一部の扇動者が実質的な権力を握る状態では、人は名目的な権力を所有していても実質的な権力を所有していないことになります。そういう扇動政治は政治思想としての民主主義から程遠いというものです。
「真の民主主義」という言葉は民主主義はそういう扇動政治とは別の形態として存在するということを示すための言葉です。
私はブックマークコメントで「「扇動されやすさ」を克服できないということは、総体としての人間は未来永劫、劇場型政治にいいように操られつづけ、真の民主主義に近づくことはありえないということですね。それならそれで、しょうがないです」と発言しました。真の民主主義に「到達」ではなく「近づく」と表現したのは、私自身、人がそういう真の民主主義に到達することはないだろうと考えているからです。人の怠惰と無関心がそれを阻害するからです。それでも、到達はできないにしても、近づくことくらいはできるだろうというのが私の考えです。総体としての人は同じような手口に騙され続ける愚か者ではないからです。
私は階層分析は手段 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかにおいてこのように書きました。

「扇動されやすさ」が克服可能かは私にはわかりません。「扇動されやすさ」の克服が人という生き物の生来の性質に反した理想であるならば、それは達成し難いでしょう。
しかし、私は人は知識の獲得により「扇動されやすさ」を克服できる方に賭けています。「氏より育ち」という言葉を、完全にではありませんが信じているからです。

人は騙されやすい生物ですが、知っている騙す手口には、そう簡単に騙されたりはしません。扇動に対しても同じことです。ゆえに私は、人がそういう知識を獲得することで、例えば過去に学ぶことで、「扇動されやすさ」を克服できる方に賭けるのです。そして賭けに負けることも折込済みで賭けに敗れたときの諦観もしています。
こういう考えを「理想を追い現実を見ない」と判断されるのであれば、それはそれで仕方がないと思いますが、私にしてみれば、貴方の方が私を「理想を追い現実を見ない人」とすることで自らを優位な立場に置こうとしているように見えるわけです。

民主制は民主制で長所も多い(日本は立憲君主制だが)。

ただし、ひたすら現実的であれと説きたい。

群集は扇動に弱い。それは古今東西変わらない。これからも変わらないのである。

その現実を見ずに「扇動されないこと」を求めて行くと、結局寡頭制や独裁制へつながる。権力を行使しうる人間が扇動されなければ、扇動という脅威から逃れることはたやすくなる。逆説的だし短絡的のようだが、理想を追い求めた結果ロクでもないことになった事例ならそれこそ歴史に山と積まれている。

群集が扇動に弱いかどうかは、その群集を構成する人によるでしょう。宣伝に対する知識を身につけた人は容易に扇動されません。使い古された宣伝文句に対してはむしろ白けるのです。そして、そういう宣伝に対する知識は歴史を経て蓄積されつづけているわけです。群集の扇動されやすさはこれからも変わらないと断言できるものではありません。そういう断言の方が、前進と後退を繰り返しながらもトータルでは前進してきた人の歴史を否定するものと言えるでしょう。
後段に関しては、民主主義が扇動政治により全体主義に堕した歴史は「扇動されやすさ」が寡頭制や独裁制へつながることを示しているわけで、現実とは逆です。

スレ主は過去や現代の人間ができないことを、「私ならできる」と思う人なのだろう。

私は、過去や現代の人間ができなかったことは、「私にもできない」と思う。

科学ならともかく、政治や統治といった分野において、いったい人はどれだけ進歩したというのだろうか。

民主制を信じそれをうまく活用していこうと思うなら、「群集は一人の扇動者によってたやすく操作される」ことから目をそらしてはいけないし、その事実を変えることができると勘違いすべきではない。

近代民主主義の誕生は進歩ではないのでしょうか。三権分立基本的人権、万民の平等はそれ以前と比較して大いなる進歩ではないのでしょうか。政治や統治といった分野においても、人は過去にできなかったことを成し遂げてきたわけです。
「扇動されやすさ」に関しても、人は社会心理学や大脳生理学などの形でその仕組みを理解しつつあります。それらからもたらされる技術は扇動に利用されうるものであると同時に扇動に対する対抗手段ともなります。「扇動されやすさ」を克服できないという断定は単に貴方の思い込みではないでしょうか。
私にしてみれば貴方の態度は単なるシニシズムだと思いますよ。