同情に理由あり

私は言ってないことを読み取るマン。*1
仕事に精神的に悩んでる人へのコメントに失敗したに対して思うところがあるので、それについて書きます。
件のブログ記事に対し「同情の言葉」がひたすら書かれていたのには理由があります。
それらの「同情の言葉」は、本当の同情も含まれているでしょうが、精神的に追い込まれている人に対する妥当なアドバイスだからです。
件のブログ主は仕事上の悩みで精神的に追い込まれ、それにより溜め込んだ感情がちょっとした刺激で溢れ出してしまうような状態。例えるならコップに溢れるほど注ぎ込まれた水が表面張力でなんとか溢れ出していないような状態。勿論憶測。
基本的にそういう精神的に追い込まれている人に対して「頑張れ」とか「精神的な弱さを克服できないのが原因」とか言ってはいけません。それはその人をさらに追い込むことになるからです。
為すべきことは、それ以上感情を溜め込むことを防ぐことと、溜め込んだ感情を減らすことと、感情の揺さぶりを抑えるための支持をすること。
「その人が悪いのではなく相手の方が悪い」といった種類の言葉はそれ以上感情を溜め込むことを防ぐため。
相手の言わんとするところを察せないことに対し不甲斐ないと自分を責めてしまっている場合、自責の感情を和らげるために「自分を責めることはない」ということを伝えるわけです。
「環境を変えたほうがいい」といった種類の言葉はそれ以上感情を溜め込むことを防ぐためと溜め込んだ感情を減らすため。
「大変でしたね」といった種類の言葉は共感の姿勢を示すことにより相手を支えることで、感情の揺さぶりを抑えるための支持をするため。
全て、今すぐできる精神的な決壊を防ぐための言葉であり、ある意味基本通りの妥当なアドバイスというわけです。

ダムに例えてみる

人のストレスに対する能力をダムに例えると、ストレス耐性はダムの貯水容量、感受性は流入量、ストレス解消力は放流量。
いくらダムの貯水容量が多かろうと能力を超えた貯水を行なえば決壊してしまいます。流入量が少なくても放流量が流入量を下回っていれば、いずれ能力を超えるほど貯水されてしまいます。人がストレスで壊れるのを精神的な弱さのせいにしてしまうのは正しいというわけではないということです。いくら精神的に強い人でも壊れるときは壊れるのです。特に真面目で無理をしてしまう人はいっぱいいっぱいでも頑張ってしまうので尚更。
ダムが能力を超えた貯水により決壊することを防ぐためには、貯水容量を増やすための規模拡大工事、流入量を減らすこと、放流量を増やすことが挙げられます。
規模拡大工事は地形に対する詳しい調査が必要な上に工事期間も長くなるので困難。流入量を減らすことと放流量を増やすことが基本的な対応となります。

流入量を減らす

流入量を減らす方法としては、ストレスとなる環境から離れること、ストレスとなる環境を変えること、ストレスを感じてしまう感受性のスイッチをオフにすることが挙げられます。
感受性のスイッチをオフにすることは、すぐにはできなくても訓練により身につけることができる場合がありますが、それに適した方法は人により異なりますし、誰にでもできるというわけでもありません。
環境を変えることもそれなりの時間と能力を必要とすること。
すぐにできる確実な方法は環境を離れること、つまり休むことになります。

放流量を増やす

放流量を増やす方法としては、溜め込んだストレスが減るのを待つこと、積極的にストレスを発散できる行為をすることが挙げられます。
ストレスを発散できる行為は人により異なりますし、無ければ見つけるところから始めなければなりませんし、誰にでもできるというわけでもありません。
すぐにできる確実な方法は溜め込んだストレスが減るのを待つこと、つまり休むことになります。溜め込んだストレスは個人差がありますが休息においての時間経過でも減少します。僅かずつではありますが、蒸発でも溜め込んだ水は減るのです。

今すぐできる確実な方法

決壊寸前の人の場合、そもそも、感受性を制御でき、ストレスを発散できる方法を身につけていて、それを十分にできていれば決壊寸前までストレスを溜め込むことはないわけです。
緊急な状況で求められているのは習得に時間のかかることではなく、今すぐできること。
流入量を減らすにしても、放流量を増やすにしても、今すぐできる確実な方法は休むことになります。*2
より有効な方法もあるでしょうが、そういう有効な方法を考案するためにはより詳しく事情を知ることが必要になりますし、それでも確実ではありません。

何のために「同情の言葉」を書き込むのか

私が何故「同情の言葉」を書き込んだかというと、プライベートモードであり許可ユーザーでしか読めない状況だったからです。許可されたのが数千人と雖も、ある意味、名指しされたような状態。(殆ど無作為に選ばれた状態だと思っているのにかかわらず)名指しされたことによる「返答する責任」に対する社会心理学的な反応なわけです。そうしないと私自身がすっきりしませんから。
人によっては、それを「返答を強制された」と(無意識に)深読みして、その「強制」に対する反発で嫌悪を表明するかもしれません。
私自身がそういう「返答の強制」に対し反発を感じ、そういう「深読み」に対して自己嫌悪を感じてしまったのは秘密です。そういう自己嫌悪自体に慣れてしまっていますけど。*3
正直な話、騙されている可能性についても考えました。これだけ分かりやすい追い込まれた状態の表示は、実は反応を楽しむための釣りなのかもしれないとか。*4
しかし、仮に騙されていた場合、私が恥をかくだけのことです。
騙されていない場合、つまり、その人が真摯に悩んでいる場合、そういう疑いを示すことは、その人をさらに追い込んでしまうことになります。
ならば、真摯な悩みとして受け取り、真摯に答えるのが正解というもの。
それに、これは私自身が所属する人間という生き物がそう捨てたものではないということを示す良い機会にもなります。
人間という生き物が困窮する他者を見捨てたり追い討ちしたり見て見ぬふりをしたりするような者ばかりでは悲しいというもの。
「同情の言葉」をかけることにより、そういう悲しいことと向き合うことを避けることができるわけで、私自身が心理的利益を得ることができるというわけです。自己満足で偽善的ですね。
当然です。私は腹黒くて不謹慎なエゴイスト。一見利他的に見える行動も、実は私自身のための行動なわけです。
情けは人のためならず。*5自分のためにやっていることなので、私の利他的に見える行動に対し、くれぐれも「他人に心配をかけてしまった」と気に病むことがないように。
私は言ってないことを読み取るマン。言われていないことを読み取って余計なことを口走ります。

*1:憶測で記事を書く宣言。対象が人の内面という直接見えないものなので。

*2:場合によっては薬物の助けも有効。理解のある医師に相談する必要がありますが。

*3:しばしば、そういう「深読み」をしてしまうから。例えば職場での飲み会の場合。「飲み会に参加できる?」「参加できますよ」「幹事やってくれない?」「(幹事になるといういきなり承諾を得にくい要請に対し、まず参加という承諾しやすい条件を認めさせ、その日は参加できないという断り文句を封じた上で、幹事になることを要請するという一貫性トリックを使った幹事の押し付けか!そんなことをしなくても引き受けるのに。いやいや考えすぎだ。まず、参加できるか確認しただけで、参加できるならということで幹事になれるかを訊いてきたに違いない。こんな他人を疑うような考えをするなんて私の猜疑心はなんてひどいんだろう。駄目だ。駄目だ。この駄目人間め!)いいですよ」といった感じ。

*4:何という駄目人間ぶり。

*5:めぐりめぐってませんが