「集団自決」に対する情報提供

「集団自決」のキーワードの編集 2 - 捨身成仁日記 炎と激情の豆知識ブログ!にオラも微力ながら協力するだ。

また玉砕せよと訓話をし、手榴弾を渡した当の日本軍指揮官が、実際には投降した

これは慶良間列島のケースと思います。
参考になるかどうかは分かりませんが手持ちの資料からスキャン。

当時の慶良間列島には、約三〇〇〇人の民間人が生活していたが、彼らが軍の陣地へと避難することは許されず、行き場を失った彼らには自決用の手榴弾のみが支給された。
慶良間列島でニ番目に大きな面積を持つ座間味島では、島の有力者から「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人と子供は忠魂碑前に集合ののち、全員玉砕せよ」との通達が出され、生存の望みを絶たれた島民は、それぞれの隠れ場所で家族と共に命を絶った。手榴弾のない者は、鎌や剃刀、包丁などで肉親を殺すことを余儀なくされ、渡嘉敷島で三二九人、座問昧島で一七一人、慶留間島で五三人の計五五三人が集団自決で絶命した。
こうした老人や子供への自決の強要は、長期戦を想定した防衛作戦の足手まといにならないようにという軍事的判断に基づく措置だった。だが、人員と兵器、補給物資の全ての面で圧倒的な劣勢に立つ日本車が、孤立した島を長期にわたって持ちこたえられるはずもなく、日本軍の慶良問守備隊の大半は、数日のうちに戦闘力を失って米軍へと投降した。

沖縄決戦―太平洋戦争最後の激戦と沖縄県民の戦い (〈歴史群像〉太平洋戦史シリーズ (49))P173より。
日本軍が守ろうとしていたものが「島民の命」ではないことが分かる話です。

14歳以下の子どもも多く死んでいる

これはおそらく戦後の厚生省の統計によるもの。

首里の防衛線を放棄した時点で、目本軍は約五万人の兵員を擁していたが、彼らが向かう先には既に二〇万人以上の民間人が各地の壕や自然洞窟で避難生活を送っており、軍の将兵が続々と到着するにつれて、壕と洞窟をめぐる紛糾が各地で頻発することとなった。
洞窟にたどりついた軍人は、防衛戦闘の継続を理由にそこからの退去を避難民に要求し、隠れ場所を失った人々は途方に暮れながら、砲弾が飛び交う危険な戦場をあてどなくさまよい歩くことを余儀なくされた。
また、軍人との洞窟内での共存を許された場合でも、一部の兵士は避難民の幼い子供の泣き声に神経質な反応を示し、その泣き声で米軍に所在を知られることを恐れて、幼児を自ら殺害したり、周囲の人間に殺させたりする事件が続発した。戦後の厚生省の統計によれば、壕や洞窟の軍への提供が原因で死亡した十四歳未満の死者は、一万人以上に上ったとされている。

同書P174より。
沖縄が危険な戦場になっている状況においての避難民に対する壕や洞窟からの退去要求は、日本軍の民間人に対する間接的殺害だと思います。「国体護持軍」だった日本軍の行動としては不思議なものではありませんが。
「壕や洞窟の軍への提供が原因で死亡した十四歳未満の死者」の人数は、ある意味、日本軍に殺された人数というものでしょう。