論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁

今回のチベット問題に関する「左派の失策」は素直に認めてもいいんじゃないかなー。 - 想像力はベッドルームと路上からのコメント欄の続き。

だから最初からずれてるんだって。
ちゃんとエントリ読んでます?冒頭に『一応「左派」の一人として』と書いてあるの、見えませんか?
俺は「外部」から「左派の失策」だと言ってるんじゃない。「内部」から「左派の失策」だと言ってるの。
上で俺が「左派」というときは、「左派=あいつら」ではなく「左派=俺達」なんだよ。「俺達ももっと上手くできたんじゃないか?」と言ってるの。

読みましたが、それが何だというのでしょうか。
私が批判しているのはinumash氏の記事が結果として(意図的であろうとなかろうと)論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁として作用するからです。
inumash氏が左派の一人として論じるのはかまいませんが、それをもって、私の批判までもポジショントークに変換しないでください。
私にしてみれば、inumash氏の記事は方向が違うだけで下記のlovelovedog氏の記事と同然のものです。
なぜニセ科学を叩く人は一般にヘンな目で見られないで、歴史修正主義者を叩く人はヘンに見られるのか - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
論点を正誤の問題から運動における勝敗の問題にずらし、lovelovedog氏は勝利宣言をし、inumash氏は左派の一人として敗北宣言をし、運動論についてお説教。正しいことを言っていても、支持を広げられないのは運動の仕方に問題があるからという自己責任論。そうやって引き合いに出した対象を(結果として)正誤ではなく運動における勝敗の点から貶めるわけです。
言いがかりをつけられて貶められ、それに対し正誤において正であることの証を立てる必要に迫られ、いざ、正であることの証を立てれば、今度は「勝敗において負けている」ことをもって貶められる理不尽。
私はそういう理不尽を批判しているのであり、それにinumash氏の立場は関係ありません。
以上、言いがかりに対する反論であるところの主張を引き合いに出したことに対する批判。


その一方で、広報力不足など左派の運動に対する批判もあってしかるべきだと思います。
「正しいだけでは人々の支持を得ることはできない」というのが真ならば、運動次第では「正しくなくても人々の支持を得ることはできることがある」というのも真。
運動というのは人々の支持を得る上で非常に重要なものです。
そして、その運動において人権団体の活動は非常に心もとないわけです。
私にとっての「敵を知り己を知れば」の敵にあたったその人々の運動は、その貧乏臭さと必死さあるいは引っ込み思案さが返って人を遠ざけているように見えるものでした。
正直に言って、

いつもと変わらない美声と華麗な衣装を、みんな待ってると思うよ。

なんていうのは、皮肉でなければそういう現実を知らない言葉に見えるわけです。
チベット問題は昔からあったわけですが、人権団体が支持を得られなかったのは、人々やマスメディアの無関心もさることながら、そういう運動の在りようにも原因があると思います。
そういう彼らも他者と適切な「距離」を取れれば、もっと支持を得ることができたかもしれません。
しかし、非コミュであるところの私にはそのように助言したくても他者との適切な「距離」の取りようなど伝えられる筈もありません。
そこで、inumash氏にはその職能を活かして彼らを手助けして欲しいのです。
inumash氏は左派ですから、どうせ他人事だと思って好き勝手言っているわけではないでしょう。これからの運動のために良かれと思って発言しているわけでしょう。深刻な自由と人権の問題であるところのチベット問題を、左右の政治対立における勝敗の問題としているわけでも、自己目的化した勢力拡大運動の好機としているわけでもないでしょう。自由と人権を侵害されている他者の救済を目的としているのでしょう。
なればこそ、意欲と能力を持った当事者の一員として活動を望むわけです。
というわけで、

最初に「あなたのこの問題設定・ロジックはおかしい」と言っておきながら、後半で「職能を活かしてもっとコミットしろ」ってただの皮肉だろ?もし無意識にやってるんだとしたらもっと救いようがないけどさ。

というのはコメントに論点が二つあることを明確に伝えられなかった私の文章力不足に基づく誤解だと思います。