大日本帝国を糾弾するのに熱心な反歴史修正主義者が大日本帝国と同じようなことをしている中国に対して積極的に糾弾しているように見えないのは何故か?


諸君、余だ。
大日本帝国を糾弾するのに熱心な反歴史修正主義者が大日本帝国と同じようなことをしている中国に対して積極的に糾弾しているように見えない、と諸君が疑問に思っているようなので余が答えよう。
簡単なことだ。
正しい情報が流布されている分には批判する必要がないからだ。
正しい情報の下、諸君がどのように判断しどのように行動するかは諸君自身に委ねられているのだ。
考えてみるがよい。
歴史修正主義歴史修正主義に対するカウンターアクション。そもそも歴史修正主義者が偽りの歴史を流布していなければ、そういう活動をする必要は無いのだ。
歴史修正主義者にとって、歴史修正主義者の偽りを暴くことが目的であり、大日本帝国の負の歴史について発言するのは偽りを暴くための手段にすぎない。
全てがそうとまでは断定せぬが、反歴史修正主義者にとって大日本帝国を糾弾するのは目的ではない。
偽りを暴くための手段として大日本帝国の負の歴史について発言することが、諸君には大日本帝国を糾弾することが目的のように見えているだけなのだ。
つまりだ。そもそもの疑問がおかしいのだ。
そして、そのおかしさは諸君自身の勘違いに立脚している。
そう、諸君は勘違いをしている。諸君自身の政治性ゆえに勘違いしている。
では、諸君自身の政治性とは何か?ステレオタイプに毒されていることだ。
諸君が「反歴史修正主義は左翼。左翼は反日で親中」というステレオタイプに毒されていることだ。
諸君の中には「ロリペドキモオタ死ね」的なオタクに対するステレオタイプな報道を不快に思っているものもいるのではないかと思う。
「反歴史修正主義者は左翼で反日親中」というのも同様のステレオタイプなのだ。
歴史修正主義自体は史実を守るためのものであり、思想の左右や対国家感情とは無関係。
反日だから大日本帝国の負の歴史について発言するわけでもないし、親中だから中国を糾弾しないというわけでもないのだ。それは、中国のチベットに対する非道を南京事件否定論などの歴史修正主義と同じ手口で否定しようとする言動も批判対象となることから明らかというものだ。
結局のところ、オタクに対するステレオタイプな報道に影響される人々同様に、諸君が歴史修正主義者による反歴史修正主義者に対するステレオタイプな主張に影響されたにすぎない。
メディアリテラシーという言葉を好むところの諸君がそのように影響を受けてしまうのは実に嘆かわしいことだ。
だが、それも無理からぬことかもしれぬ。
国家の不名誉を自己の不名誉のように感じる人は未だ多い。そのような人が大日本帝国の負の歴史について発言する反歴史修正主義者に悪感情を抱きやすいのはやむを得ぬこと。そして、それは悪感情の対象に対するネガティブな評価を受け入れやすくする。これは構造的に避けられぬことだ。
しかしだ。歴史修正主義者の現実の姿を見てみるがよい。
彼らは議論において実に憐れな存在だ。彼らの拠って立つところの歴史修正主義が史学的には話にならないどうしようもない代物だからだ。
敵は間抜けな絶対悪と信じ込んだ憐れな新参歴史修正主義者が使い古された穴だらけの否定論を振りかざし敵も知らず己も知らずに反歴史修正主義者に突撃して返り討ちにあい、「えーマジ否定論?」「キモーイ」「否定論が許されるのは小学生までだよねー」「キャハハハハハハ」と笑われるのはもはや風物詩である。
敵を間抜け扱いして返り討ちにあった歴史修正主義者が笑われているのを見たウヨクが「ウヨクをバカにするなー」と逆切れするのもまた風物詩。「俺は御前らの感情に配慮しないが、御前らは俺の感情に配慮しろ」というわけだ。ウヨクが歴史修正主義と親和的ゆえの悲喜劇だ。


繰り返し言おう。
歴史修正主義者にとって、歴史修正主義者の偽りを暴くことが目的であり、大日本帝国の負の歴史について発言するのは偽りを暴くための手段にすぎない。
何故、偽りを暴くかといえば、正しくない情報が判断材料として無価値などころか判断に際し悪条件となることをその理由の一つとして挙げられよう。
そうやって確保された正しさの下、諸君がどのように判断しどのように行動するかは諸君自身に委ねられている。
大日本帝国の負の歴史に対し、諸君はどのように判断するのか。
大日本帝国と自己を切断して糾弾するのか。
同胞の行為として自省し教訓とするのか。
古今東西の人類の非道を掻き集めて「他国も同じことをしている」と相対化するのか。
選択肢は様々だ。
もっとも、切断と相対化のように、不快さと向き合うことを避けている点では同じな選択肢もあるがな。
諸君、余は「昔は自虐史観教育のせいで左翼だったがネットで真実に目覚めた」と主張して歴史修正主義者になる人間がいることをまったく不思議に思わない。
そういうのは他罰的で不快さと向き合う勇気を持たぬものが向きを変えただけ。非難の対象が大日本帝国から「自虐史観」に変わっただけ。主張は変わっても内面が変わったわけではないのだ。


さてだ。
チベットの人権問題が脚光を浴びることにより大日本帝国と同じようなことをしている中国が問題になったわけだが、それに対し諸君がどのように判断しどのように行動するかも諸君自身に委ねられている。
人権問題を重視して人権団体に自ら助力するのも判断。
人権問題より中国との経済関係を重視して沈黙することを表明するのも判断。
複雑な問題ゆえに判断を保留することも判断といえよう。


問題は、何らかの行動をした方が良いと判断したのに、そのための責任と手間を厭うものたちだ。責任と手間を厭うゆえに、自ら行動するのではなく、行動させられることを待ち望むものたちだ。自ら判断し行動できるのにかかわらず、その責任と手間を他者に転嫁することを恥とせぬものたちだ。
そして、それにより彼らは「特権」を得られるのだ。
彼らは自身が行動しない理由を導くべきものが導かないことに責任転嫁できる。
また、導かれて行動した際、行動が失敗であれば導いたものに責任転嫁できる。
責任を自身で負わないがゆえに彼らは「無辜」でいられるのだ。



しかしだ。
余は彼らの存在に感謝せねばなるまい。
扇動政治が未だ有効なのは彼らのような存在があればこそとゆうものだからだ。
彼らのような「行動させられるもの」は煽動者にとって好都合な存在だ。
だからといって煽動者は彼らを一方的に利用しているというわけではない。むしろ煽動者と彼らは互恵関係にある。
扇動者は彼らを率いることで数的優位を得ることができる。そのようにして自らの望みの実現に近づける。
扇動者に率いられる彼らは彼らで責任を扇動者に「外注」できる。それゆえ、何があろうと「無辜な国民」でいられる。
そこに扇動者と「無辜な国民」の「美しい共犯関係」が成立するのだ。
そうではないかね?