似非科学批判と「北風と太陽」

似非科学批判に対し似非科学批判批判な人が「批判より懐柔が必要だ」というようなことを「説教」することがあります。
それは、ある意味では「正論」です。似非科学の「コート」を纏った「旅人」は批判という「北風」に曝されれば曝されるほど、「コート」を吹き飛ばされまいとより強固にそれを掴む傾向があるのは事実ですから。
しかし、その「正論」は似非科学批判な人の目的が「コート」を脱がすことにあるときにしか成り立ちません。
そして、似非科学批判な人の目的は大抵そこにはありません。
では、何処にあるかといえば似非科学の「コート」の「暖かさ」がまやかしに過ぎないことを似非科学について知らない人にも示すためです。
それもこれも似非科学の「コート」を纏った「旅人」が似非科学について知らない人にまやかしの「暖かさ」をもって共に「コート」を纏うように勧めるからです。
そのようにして似非科学が「仲間」を増やそうとする以上、似非科学について知らない人に伝わるように繰り返し繰り返し似非科学を批判し似非科学の主張に正当性が無いことを示しつづけなければならないのです。似非科学に嵌る人の増加を防ぐために。
似非科学に嵌る人はバカとは限りません。むしろ、歴史修正主義を含む似非科学やカルトは優秀な人を「仲間」にしたがりますし、人間の心理的脆弱性をついてそれに実際に成功する例も多々あります。
濃い似非科学批判な人は似非科学に嵌る人が必ずしもバカではないことを知っていますし、ひとたび似非科学に嵌ればそれから抜け出すことがどれほど困難かも良く知っています。生半可な「太陽」では似非科学の「コート」を脱がすことはできないのです。*1
なればこそ、似非科学の「コート」を脱がすことより纏う人の増加を防ぐことが優先されるのです。批判の主目的は似非科学について知らない人に似非科学に正当性が無いことを知らしめることであり、批判対象が説得されるというようなことは副次効果として「あればいいな」というくらいにしか期待していません。
似非科学の正当性を否定するということは、似非科学を容認する姿勢を取れないということであり、「太陽」のような懐柔の姿勢を取れないということでもあります。ややもすると、それは似非科学に嵌った人の人格否定を目的としているように見えるのかもしれません。実際はそうではないのに関わらず。

*1:そんなことは無いと思う似非科学批判批判な人は「観客席」から似非科学批判な人に似非科学に嵌った人を懐柔する責任を丸投げするのではなく、自ら「太陽」になって手本を示すべきではないかと思います。