おこぼれ理論のどうしようもない胡散臭さ

おこぼれ理論

ほんとうに経済成長で「底」は上がるのか?〈貧困〉は解消できるのか?大企業が成長して好成績をあげれば、コップの水が溢れてしたたり落ち、地面(底)も潤う。この理論は昔からあって、英語では「トリックルダウン・セオリー」という。わかりにくいので、私は「おこぼれ理論」と呼んでいる。金持ちがますます金持ちになれば、貧乏人もそのおこぼれにあずかれますから、所得の均衡や再分配などといったバカなことは言わずに、貧乏人は金持ちがガンガン稼ぐのを応援していればいいんですよ、という理屈だ。会社が成長すれば、社員も楽になる。だから社員は会社に忠誠尽くして、四の五の言わずに働きましょう…と翻訳すれば、日本人にもなじみの深い理論だとわかる。
ふざけた理論だと思うが、今流行の新自由主義的経済理論では、それが「正しい」とされている。日本の代表格は、元閣僚の竹中平蔵氏だ。彼はずっと「規制緩和のおかげで『格差』はこの程度で済んだんで、やってなかったら、もっともっとひどいことになってましたよ」という言い方で、依然として「おこぼれ理論」を唱えつづけている。
これは「正しい」のか?理論として「正しい」かどうかは、この際問題ではない。問題は、私たちがちゃんと「おこぼれ」にあずかれているかどうか、だ。今、企業は空前の業績をあげている。トヨタ自動車に至っては、年間の連結決算利益が二兆円にのぼるそうだ。トヨタだけではない。銀行も不良債権処理が済んで、史上最高の利益を出している。金持ちは着実に増えている。一億円以上の資産を持っている大金持ちの数が年間五%ずつ増えている。ではその「おこぼれ」は?私たちの生活は豊かになったか。利益はきちんと分配されているか。
豊かになってない。私たちのところには来てない…。
でも経営陣は「一瞬でもスキを見せれば、競合他社にやられる。外資M&A(合併と買取)を食らう。経営者は一瞬も気を抜けない。とても『おこぼれ』をくれてやる余裕はないんですよ」と言う。日本経団連の御手洗会長は、今は「景気回復の入口」だと言って、このまま耐えつづければ、いずれ庶民にも利益が回ってくるかのような幻想を振りまいている。そう言えば、小泉前首相もよく言っていた。「痛みを伴う改革は、ゆたかさへの道だ」と。
この理論の”ミソ”は、この時間差にある。大企業が十分成長していけば、必ず「おこぼれ」はやってくる。しかし、今すぐにではない。今はガマンするしかない。ガマンしていれば、そのうち必ずいいことがある。だから今はコップの下で口を開けて待っていてくれ…。そうやって利益は資本に充当される。コップはグラスヘ、そしてジョッキヘと大きくなる。一杯になる前に器が大きくなるから、いつまでたっても一杯にならない。でもいつかは必ず一杯になる。一杯になればこぼれるはずだから、そのときはごくごく飲んでください。でもまだ一杯じゃない…。いいかげんアゴが疲れる。「おこぼれ理論」は時間差攻撃であり、先延ばし理論でもある。

利益はどこへ?

「そのうちいいことがあるから、今はガマンしなさい」「規制緩和してなかったら、もっとひどいことになってたんだぞ」というのは、ほとんど脅しだ。私たちは脅されているのだということを、もういいかげん認めていい。実際は、脅しに屈している間に、「底上げ」どころか、ますます「底の抜けた」社会になっているのだから。
「バカな。今利益を分配しちやったら、企業が倒れて、あんたたちだって路頭に迷うんだよ」と彼らは言う。企業が倒れても、私たちがきちんと暮らしていければ問題はないはずだ。私たちは、安心して生きていくために働いている。そもそも、暮らしと会社が運命共同体などもう古い、使えなくなったら捨てる、生活の面倒を見るのは会社の役割ではない、と経営者のほうが言っているんじゃないか。それならば自分たちの生活を守ろう。将来の不安を人質に取るなど、だいたいやり口が汚い。労働も社会保障も切り崩して底の抜けたような社会にしておいて「底上げ」なんて、バカにするにもホドがある(図表3)。
雇用をどんどん不安定に、細切れにして、同時に生活保障も削る。人々の生活はいよいよ成り立だなくなる。政財界のやりたい放題だ。今、〈貧困〉は日本という優秀な工場の中で、ガンガン大量生産されている。日本社会の所得分布は、分厚い中間層のいるひし形社会から、真ん中のくぼんだ砂時計型社会になっていくと言われる。ふつうに考えれば、もういつ暴動が起こってもおかしくない。それだけめちゃくちゃなことをされているのだから。
しかし、政財界もバカではないから、そうならないためのしかけを世の中に張りめぐらしている。「自己責任」に「自立支援」に「再チャレンジ」。これらが暴動を封じ込め、起きたとしても散発的な暴発にとめ置くためのしかけだ。見えにくい〈貧困〉に目を凝らし、それを起点に考えることで、そのことが見えてくる。


90年代半ばを境に生産性と人件費の伸び方に大きな違いが見られる。それまでは、生産性が伸びれば人件費も伸びていた。しかし、90年代半ば以降は、生産性が伸びても人件費は伸びない。むしろ減っている。企業は人件費を抑えることで生産性を伸ばしてきたからだ。もはや企業利益が伸びても、人件費は伸びない。企業が育っても、私たちに「おこぼれ」は回ってこない仕組みになっている。

貧困襲来P88-94より。
湯浅誠氏がおこぼれ理論というところの、「貧困の解決の前に、まず経済成長。経済成長すれば自然に貧困は解決できる。そのためには所得の均衡や再分配などバカげたことだ」論。この手の主張はネットでもときおり見かけますが、私は非常に胡散臭いものと思っています。
なんといってもゴールが見えない。どれくらい成長すれば、そのおこぼれは貧困の解決に使われるというのでしょうか。本当にゴールに近づいているのでしょうか。
何というか、経済成長でゴールへ向かっていても、ゴールの方も経済成長に合わせてより遠大な地点に設定され続け、永久にゴールにたどり着く日は来ないのではないか。労働者はそういう風にして「目の前にぶらさげられたニンジンを永久に追い続けること」を求められているのではないか。そういう風に思うのです。
で、図表3に示されているような構造を見ると、そういうおこぼれ理論は労働者に希望を持たせて操作するための現実と矛盾した詐欺論法としか思えないわけです。
おこぼれ理論を真に受けて「経営を理解して」低賃金での重労働を受け入れたとして、その結果は使い潰されて体を壊し働けなくなり、そうなっても削られまくった社会保障の下では救済はされないので路頭に迷うしかないのではないか、なんて思いますね。
実際問題、貧困問題について書かれたまともな書籍を読めば、ネットカフェ難民やホームレスになる人は「働かない人」というのはどうしようもない偏見で、むしろ、一時期働けなくなったことなどが原因で、そういうどうしようもない悪条件でも働くしかない立場に追い込まれた人々であることが分かろうというもので、働けなくなったときのための「溜め」が無い人にとっては、そういう生活は「明日は我が身」というものなわけです。
まあ、世間は広いですから探せば新自由主義者が言うような自業自得しか言いようのない貧困者もいるでしょうが、それは決して貧困者の典型ではありません。
とりあえず結論としては、おこぼれ理論をしたり顔でかたる人は最悪ということで。