「劣等者」を「悪い種」として排除を正当化する〈人種〉の原理

〈人種〉の原理

この生‐権力の社会は、人間の生の尊重を謳う社会であるが、この社会の権力は自己矛盾を抱えているようにみえる。広島の原爆が象徴的に示したことは、人間の生を重視することを原理とするはずの社会が、一挙に数十万の無辜の民を殺す社会でもあるということだった。
原爆を製造する社会、それは殺害する権力の社会であり、生を破壊する社会である。この社会はまた、遺伝子操作や病気の治療という名目で、過剰に生を破壊する物質を作り出す社会である。フーコーはこの物質を「普遍的に破壊する制御不能ヴィールス」と呼んだ。これはエイズを指した言葉ではないが、生のために利用されるはずの科学的な手段が、遂に多数の死を生み出すという現代社会の縮図がここにみえる。
それではこの生‐権力は、どのようにして死の権力に変貌するのだろうか。生を謳う権力はどのようにして、敵だけではなく、自国の市民たちに死を命じ、殺し、相手を殺戮させることができるのだろうか。
フーコーは、それを可能にするのが〈人種〉という原理だと考える。生‐権力は、国民を生かすことを原理とする権力であり、その原理に従う限り、自国の国民を戦場に追いやって殺戮することも、無抵抗な他国の住民を殺戮することもできないはずである。そこに一つの差異を持ち込むのが〈人種〉の原理なのである。
フーコーがここで考えている〈人種〉という原理は、ナチスが考えた「民族の共同体」を構成する生物学的な人種の概念を含むものであるが、それよりもさらに広く、国民の中の生かしておく部分と、殺してしまう部分を分離するために、利用される概念と理解すべきであろう。
これは人間の種に、「よい種」と「悪い種」という区別を導入することによって、人間という種全体を、死ぬべく定められた人間と、生きるべく定められた人間に分割することである。『ショアー』や『シンドラーのリスト』をはじめとして、ホロコーストを描いた映画は多いが、どの映画をみても、ただユダヤ人に属するということだけで、それまでの普通の暮らしを捨てて、死への道を歩み始めることを強制される理不尽さに衝たれる。
隣人は普通に生き続けるのに、自分は故のない身体的かつ生物学的な理由で殺戮される。人種差別とは、種の空間を細分化し、その一部だけを「特別待遇」することである。
フーコーは、近代のバイオ・パワーにおいてこの人種差別が必要とされたのは、住民を細分化することによって、殺す原理を導入するためであったと考えている。他者を多く殺すほど、自分の生が確保できるという戦争の原理そのものは、新しいものではない。人種差別の原理の新しさは、人々を生かすことを支配の原理とする生‐権力の社会に、殺す原理を持ちこんだことにある。人種差別が近代の社会にいたるまで存在しなかったというのではなく、近代の生‐権力の社会にいたって、国家の政治的な機構において、人種差別が枢要な役割を果たしはじめたのである。
第二次世界大戦におけるナチズムのユダヤ人差別、明治以来の日本での朝鮮人差別、米国における日系移民の差別に示されるように、人種差別とは身体的で生物学的な根拠に基づいて、他者を殺戮し、貶め、屈辱を味わわせる原理である。人種差別によって、他者に死をもたらし、「悪しき種」を滅ぼし、「劣った種」や「異常な種」を絶滅すれば、われわれの生そのものがさらに健全で、正常で、〈純粋〉になると考えるのである。
この観念は啓蒙や普遍的な人間性という近代の論拠では対抗できない。ここで蠢いているのは、生物学的な純粋性の観念、他者の死のもとに自己の生を確保しようとする盲目的な欲望である――そこに人種差別という「野蛮」の秘密がある。戦争とは二つのことを意味するようになった。それはたんに政治的に敵対する国を破壊することではなく、…好ましくない人種、生物学的に危険な人種を、われわれという人種のために破壊することである。

純粋さを目指す戦争

一九世紀以降の戦争には、人種戦争という側面がつねにつきまとっていた。好ましくない人種を破壊することは、われわれという好ましい人種を再生させるための一つの方法である。われわれの人種の中から排除され、摘出される「汚れた部分」の数が多いほど、われわれはさらに純粋になる。戦争とは、ある意味では人種浄化運動なのである(旧ユーゴスラビア内戦では、兵士のレイブによる他民族の「汚染」の試みと人種浄化の原理が重要な役割を果たしたことを思うと、フーコーのこの指摘の先見性に驚かされる)。
戦争だけでなく、犯罪者、精神障害者、狂人、性倒錯者についても同じような浄化の論理が適用される。優生学とは、生物学的なコントロールによって、「汚れ」を除去し、人種の浄化を図る学であり、生の原理によって人々に死をもたらす学問であるとすると、生‐権力とは優生学を原理とする権力だと言うことができる。
人種差別を行う人は、個人と個人として向き合っているのではなく、一つの集団のある普遍性に基づいて、集団として差別するのである。戦前の日本には「非国民」という言葉があったが、これはその個人が信じる一つの正常性のカテゴリーに入らない者(パーマをかけている人、英語を話す人、朝鮮人に同情を示す人)を、日本という国家、日本人という「民族」の普遍性の立場から非難することによって、安全な立場から弱者を攻撃できるという仕掛けをもっていた。フーコーがここで指摘している人種差別の原理は、まさにこの非国民の原理である。日本の学校で蔓延している差別と迫害が、「汚い」「よごれ」という言葉をキーワードとしていることを考えると、これは日本の社会にうまく棲みついた原理だということになる。
フーコーはナチズムが、バイオ・パワーという生‐権力の国家において初めて可能になった権力であることを強調している。ナチズムの特殊性は、生かす権力の社会に登場しながら、アーリア人の血の純粋性という架空の概念に基づいて、国民の中の純粋でない部分を排除するという方法に頼ったことにある。このため、他の人種を破壊しながら、ドイツ国民そのものを破壊していった。
かつてシモーヌ・ヴェーユは、戦争とは軍の参謀本部などの国家のすべての装置が、国民全体に仕掛けた戦いであると語ったことがある。戦争は階級的な対立をさらに尖鋭的な形で示したものであり、国家の装置は「自国の兵士を強制的に死に追いやる以外に、敵に勝つ手段がないので、ある国家と他の国家の間の戦争は、ただちに国と軍の装置と自国の兵士だちとの戦いに転化する」というのである。
ヴェーユは、戦いに駆りだされる兵士という視点から戦争の構造を見抜き、革命戦争というものはないと喝破した。革命家が指導するものであっても、戦争とは最大級の抑圧であり、戦場とは兵士たちの大量虐殺の場であると主張したのである。
フーコーはこのヴェーユの洞察を引き継ぐかのように、戦争とは国家が自国民を殺す仕掛けだと考える。ヒトラーの国家は、自国の民族の〈純粋な血〉をさらに純粋にするために、他の人種を絶滅するという「最終解決」を採用した。しかし民族の〈純粋な血〉を守るはずのこの政策は、自民族の純粋な血を戦場で流し、ついに国家として崩壊するという逆説的な帰結を招いた。フーコーはこれは、近代の生‐権力の国家の一つの結論だったと考えている。この生‐権力は、生かすこと、国民の生活の福祉を向上させることを名目としながら、〈人種〉の原理によって、自国の国民を戦場に追いやったのである。
大地が凶徴に輝いているとすれば、それは啓蒙が神話に堕し、理性が道具的な理性に堕しだからというよりも、生‐権力である現代の〈福祉国家〉の逆説的な原理を極限の姿で示しているからである。

フーコー入門(ちくま新書)P176-182より。強調は引用者による。
強調部分に見られる傾向は現代の自称中道とか自称一般人とか自称普通とかの人にも共通しているなあ、ということはさておき、ホロコーストの背景にドイツ民族にとっての有用性から「劣等者」を排除する思想があったことは、虐殺の対象が精神障害者知的障害者といった「社会の負担になるもの」にまで及んだことを考えれば明らかだと思います。
それを「緊急状態における人権の停止」という観点から見れば、不景気を背景とした国民の感情、例えば「俺たちがこんなに苦しんでいるのは奴らのせいだ」とか「俺たちがこんなに頑張って働いているのに何で働きもしない連中を税金で養わなければならないんだ」とか、が「『私達』全体の生存のためには『劣等者』を排除しなければならない」という「緊急状態」を作り出したといえるかもしれません。そういう風にして「私達」全体のために個の人権を停止することが正当化されるのが全体主義の一側面だったりするわけです。
そういうことを前提とすれば、ある意味、ナチスはそういう「緊急状態」のもとで、ドイツ民族にとっての有用性から、生かすものと死なすものを「選択」したということもできるでしょう。
そして、そういう「劣等者」を排除する思想はナチスだけのものではありません。
ネットに溢れるヘイトスピーチや、ホームレスやネットカフェ難民に対する偏見を見ると、そういう「劣等者」を排除する思想は日本の現代社会にも共通して存在しているということを実感させられます。