愛国者であるから歴史修正主義を批判する

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081208/1228726052の追記に対して。

いや、それはwikiにすら書いてあることでしょう。そのぐらいを知っていないという「どうしようもない憶測」をあなたはされたわけですね。興味深いことです。

私は「件の藤田直哉氏の記事のように一知半解の知識で適当なことを吹くのは知識人にあるまじき行為とは思いますが、「「一般大衆」の代弁者として偽悪的に振舞」っているがゆえのことで、本人の資質の問題ではないと思うことにします」と述べてますね。
「そのぐらいを知っていない」というのが藤田氏の「一般大衆」像ということでしょう。

歴史修正主義」という言葉を無自覚に罵倒語に利用している人たちに対して、「通俗的」な意味の方ではなく、「原義」の方で返すことで、「その用法を使う共同体」自体を相対化する意図の発言なのですが、いかがでしょうか。

「原義」の方で返すというのは「歴史修正主義という言葉の成立過程を知らないがゆえの無知に基づいた」今更の行動というだけの話ですね。「そのぐらいを知っていない」ことの表明にしかなりません。

邪馬台国どっちにあるか分からないよね、と言ってもここまで批判されないでしょう。それは「どうすんの」ってなっていないのは、ネット上で対立を孕んだ論争になっていないからでしょう。

それは「どっちにあるか分からないよね」と言っても批判はされないでしょう。「存在しない」といえば批判されるでしょうけどね。
南京事件否定論は「諸説のどれが本当か分からない」と主張しているのではなく「存在しない」と言っている説です。
そういうことが分かるように「邪馬台国の位置を特定できる史料がないからといって「邪馬台国なんて存在しなかった」と言えば否定論(歴史修正主義)扱いになるでしょうけどね」と書いたのですが読み取っていただけなかったようですね。
歴史学歴史修正主義の関係について「どっちにあるか分からない」と表現しているのであれば、それは「本物と偽物のどっちが本物か分からない」と主張しているようなものですが、もとの発言は歴史学に基づいた諸説に対してのものなので、それはないですよね?

「科学的手法」自体への信頼感が低下しているときに「科学的である」ことを理由にした反論は無意味であると思います。「何故歴史学的でなければいけないのか」を説明して欲しいのです。

「信頼感が低下している」という前提を仮に真として、本物の方を信頼できないので本物と偽物で偽物の方を選ぶという人でもなければ、本物の方を選ぶでしょう。で、南京事件否定論は偽物。
本物にしても、より信頼度の高い本物が新たに登場すれば、そちらの方を選ぶでしょう。
歴史学的でなければいけない」とすれば、それはそれより信頼度の高い方法を人間がまだ手に入れていないからです。仮に時空を越えて物事を直接的に観測できる技術が開発されれば歴史学はそれにとってかわられるでしょう。

あと、僕が言っているのは、学者の中でも諸説あり、そこで何が正しいかは「肩書き」で判断するものと思われるからです。我々は中身だけで物事を判断しているでしょうか? いえ、結構肩書きで判断しているはずです。中身だけで判断できるリテラシーも専門性も、当たれる一次資料もない場合、基本的に「学会」とか「大学」とかという制度の肩書きを信用しますね。しかし、その「大学教授」とかの中で意見が割れている。互いの陣営は互いの主張を「あれは聞くに値しない」とそれぞれ言っている。内容を読んで調べたり、リテラシーがあれば判断できるが、そこまでリテラシーを「皆が」上げることは、「南京」問題だけについてのみであれば可能であるが、基本的に人は面倒なことに金も時間も使いたくないので、全てに関しては無理であり、この問題だけを特別に調べなければいけないと「論理的に」説得することも難しい。そこで「倫理や責任」とかが出てくるが、それはほとんど感情の問題ではないだろうか。感情に訴えかけて「動員」をするつもりであるならば、それは「非論理主義」である。非論理的でいいのならば、修正主義のほうが動員力がある(加害の事実を否認した方が心理的コストが低いから)。以上の理由で「啓蒙」は失敗する。(現に僕一人説得するのに数人がかりで何時間もチャットやっているのだから、数千万人を説得するにかかるコストは推して知るべし)

南京事件否定論は諸説の問題ではありません。偽物が本物ぶろうとしている問題です。「肩書き」で言えば、まともな歴史学者南京事件否定論をとなえる人はいません。むしろ、「肩書き」で判断してくれる方が助かりますね。南京事件否定論を信じてしまうような人は歴史学の「肩書き」を信じてくれない人なわけです。
で、藤田氏にとっての「一般大衆」は「肩書き」に対する信頼は有るのですか?無いのですか?
「啓蒙」に関していえば、藤田氏のようなスタンスの人を説得することは無理かもしれませんが、世の多数の人に「南京事件否定論はトンデモ」ということを分かってもらうことはできるでしょう。
ネット上で言えば、南京事件否定論が蔓延したのは対抗する情報が殆ど存在しなかった初期で、対抗する情報が充実してきた現在は目に見えて弱体化しています。
私にとって「一般大衆」は南京事件否定論のどこが出鱈目か史料に基づいてきちんと説明すれば、南京事件否定論を信じることが如何に愚かなことか分かってくれる人々です。
分かってもらえないのは後戻りできい程のビリーバーか、既にごねることが目的になってしまっている人くらいではないでしょうか。

しかし今回、「科学=歴史学」を尊重している人々の非難の言葉は「倫理」や「感情」であって、論理の言葉ではなかった。そこは抑えておきたいと思います。「件の藤田直哉氏の記事のように一知半解の知識で適当なことを吹くのは知識人にあるまじき行為とは思いますが」とかね。僕の行動が「知識人にあるまじき行為」であることについてちゃんと実証主義的に証明された研究を持ってきてください。

倫理というより言葉の定義の問題ですね。
知識人は確かな知識に基づいて知性的な言動を行う人というものでしょう。
一知半解の知識で適当なことを吹くような反知性的な言動を行う人を知識人とは言いません。普通は愚か者扱いされるでしょうね。藤田氏の場合、それは「「一般大衆」の代弁者として偽悪的に振舞」っているがゆえのことなわけで、藤田氏にとっての「一般大衆」はそういう愚か者ということでしょう。
言葉の定義の問題ゆえに実証主義的に証明された研究なんて必要ありませんね。

科学を信じなければいけないということを論理的に言うことができない、その時点で僕はもう敗北していると思うのですがどうでしょうか。「科学を尊重しろ」ということ自体がイデオロギーなんですよ。非論理主義者、反知性主義者との衝突に際し、「科学的であること」をその正しさの根拠にすることはトートロジーです。よって、感情的にならざるを得ない。南京だけでこんなに騒ぎになり、邪馬台国とか、「アポロ」だったらこうはならなかったでしょう。そのこと自体が「感情」を駆動原理にしていることの証明であり、「感情」を優先しようとしてそのために都合のいいソースを見つけ(確証バイアス)論理が破綻し、相手を「倫理的に」罵倒しというパターンは両者ともそうであると僕には思えました。(例えば、相手側の陣営の著作は「読むに値しない」という断定は両者に見られます)

この文は根本的な世界認識に対する誤解の表れでしかないと思います。
「科学を信じなければいけない」なんてことはないですよ。
現時点では人間は自らが生きる世界について確からしく知る方法として科学を上回る方法を知らない。ゆえに、論理的帰結として「確からしさを求めるのであれば科学を信じるしかない」のです。
からしさを求めないのであれば、出鱈目な「物語」を信じ主張するのも自由です。その結果として、確からしさを求める人々からトンデモ扱いされたとしても、それは当然の報いというものでしょう。


「読むに値しない」というのは議論のルール的にはアウトです。反論において相手の主張を読んで把握するのは当然のことで、相手の主張を把握しないで勝手に作り出した像に「反論」することは普通「藁人形」という、なんてことは(ネット限定かもしれませんが)今では常識ですね。
南京事件否定論に関して言えば、その主張は南京事件FAQなどで逐次反論されているわけで、藤田氏の「両者ともそうであると僕には思えました」というのは論争の経緯を知らないがゆえの発言ではないかと思えました。

「科学的でなければいけない、論理的でなければいけない」というのを無条件で反論を封じ込めて押し付けるためには「権威」が必要であり、「論理的ではなく、そして批判してはいけない権威」ってなんのことかと思えば、天皇がそうじゃないかと思うのですが、逆に言いますが、「科学教」による「科学信仰」の押し付けの状況こそ戦争当時の日本人を髣髴とさせ、軍靴の音が聞こえるとか、簡単に言える。

これも、「現時点では確からしさを求めるのであれば論理的帰結として科学的でなければならない」というだけの話ですね。
そして、確からしさを求めることは押し付けられていません。
現に物語は物語として、信仰は信仰として尊重されているでしょう。
似非科学歴史修正主義の問題は、端的に言ってそれが虚偽であることです。
科学でないのに科学を装う。歴史学でないのに歴史学を装う。そういう虚偽が批判されているのです。
「科学でないのに科学を装うな。歴史学でないのに歴史学を装うな」というのは論理的に妥当な主張と私は思いますよ。

歴史学を尊重していない」、と言われても、じゃあ「愛国心を尊重していない」とか相手に言われたらどう返すんだろう、とか思うわけですよ。「歴史学」を信仰しているか「愛国心」を信仰しているかの闘争にならざるを得ない。

「そんなのは本当の愛国心じゃない」と言えばいいと思いますよ。ありのままの自国を愛せないから虚偽の歴史で美化した自国の姿を捏造しているわけですから。
少なくとも私は自国の歴史の醜い部分を知っても自国を愛しているので歴史修正主義者より遥かに自国を愛していると宣言できます。自国の歴史の醜い部分を知って醒めるような愛国心は軟弱と言わざるをえませんね。
むしろ、歴史修正主義こそ歴史を偽り先人の遺した教訓を無にし外交関係を悪化させて国を危うくする非愛国的行為。
そもそも「歴史学」と「愛国心」を対置することがおかしいと思いますね。それらは両立できるものですよ。