偽の脅威に騙されるな : ドイツ軍ラインラント進駐の教訓

一九三六年三月七日未明、ヒトラーは軽装備の歩兵一九個大隊を、静かにラインラントヘと進めさせ、そのうちの三個大隊には、ライン川の西岸にまで進出させた。
ヒトラーはそれから四八時間にわたり、固唾を呑んでフランスとイギリスの対応を注視したが、英仏両国は意外にも、明白なヴェルサイユ条約違反であるドイツ側の行動を、軍事力を用いて阻止しようとはしなかった。
英仏両国の政府と軍の上層部は、ドイツ空軍が新鋭機を用いて行っていた派手な宣伝活動に幻惑されて、ドイツの軍事力、とりわけ航空兵力を過大評価していた。
そのため、現時点で英仏とドイツの新たな戦争が勃発すれば、自国の工業地帯がドイツ空軍の爆撃を受けて壊滅する可能性も無視できないとの判断から、英仏両国政府は「ラインラントの将来はドイツ政府を信頼して任せ、ヒトラー政権との間で新たな平和機構の樹立を目指すのが最善の道だ」とする、いわば妥協的な結論に到達していたのである。

ポーランド電撃戦」P28-29より。
ドイツ軍のラインラント進駐に対する英仏両国の対応は「チェンバレンの宥和政策」と並び、しばしば「平和主義が戦争を準備した」という「歴史の教訓」として平和主義を否定するために引かれる事例です。
確かに当時の時代背景として第一次世界大戦の惨禍による「戦争はもうこりごり」という厭戦感情による「平和主義」があったのは事実です。
しかし、英仏の上層部がその「平和主義」によってラインラント進駐を見逃したかといえば、そうではありません。
彼らがそう判断した直接の理由はドイツの戦力を過大評価した結果の「合理的判断」によるもので、それはドイツの宣伝に惑わされた結果だったわけです。

当時のドイツの戦力はドイツ側の認識でも英仏とまともにぶつかれば敗北は必至なものでしかなく、ドイツは相手が軍事的対応をとれば開戦を避けるために即座に撤退する方針でしたが、それは当時の英仏には認識しえないことでした。

このような当時の外交関係から教訓を読み取るとすれば、*1それは「偽の脅威に騙されてはいけない」ということだと思います。


もう少しこの件について詳しく書くと、こういう英仏の「宥和政策」は、さほど足並みを揃えたものではなく、フランス単独でのドイツへの対応の可能性もあったわけですが、英仏はそれぞれの考えのもと、あのような結論に達したわけです。

イギリスの判断

ヒトラーが行った軍備の粉飾工作に惑わされた英首相ボールドウィンは、ドイツの軍事力、とりわけ航空兵力を過大評価し、現時点で英仏とドイツの新たな戦争が勃発するのは得策ではないとの判断から、フランス軍がラインラントで軍事行動を開始しても英政府はそれを支持しないとの意向を英外相イーデンに伝えた。
三月十一日、パリを訪問したイーデンは、現在のラインラントに対するドイツの行動が、貴国(フランス)に対する脅威や敵対を意味する根拠はないとの英政府の認識を伝えた後、「ラインラントの将来はドイツ政府を信頼して任せ、ヒトラー政権との間で新たな平和機構の樹立を目指すのが最善の道だ」と述べ、さらには「我々が平和を欲するなら、この道を進むのが自明の義務である」とまで言い切った。

西部戦線全史」P83より。
こういう記述を見ると、ドイツの宣伝に惑わされたイギリスがフランスの軍事行動をも制止したかのようですが、実際には、フランスはフランスで軍事行動をとれない理由がありました。

フランスの判断

戦争回避のためには宥和しかないという英政府の意向は、仏首相サローの判断にも大きく影響した。だが、サローにとって予想外だったのは、第一次世界大戦を指導したフランス軍の重鎮たちも、戦争回避のためには宥和が最善策だという意見を唱えたことだった。ドイツ軍のラインラント進駐開始から二日が経過した一九三六年三月九日(イーデン英外相の訪仏から二日前)、サローはドイツのラインラント進駐への対応策を協議するため、フランス軍の最高首脳を自宅に集めて会議を開いた。
この会議が始まる前の段階で、サローが想定していたのは、敵の進駐兵力を撃退するに足る程度の小規模な戦闘部隊を、警察行動の延長としてラインラントに派遣するというものだった。これにより、ロカルノ条約の維持に努める国際的なアピールの効果も得られ、さらにはドイツ側の戦争に対する「覚悟の程」を椎し量る効果も得られるはずだった。
しかし、重々しい表情で会議に列席したフランス軍最高幹部の認識は違っていた。
陸軍参謀総長モーリス・ガムラン将軍は、ラインラントに進駐したドイツの総兵力を「正規軍三万人と国家警察二七万人の計三〇万人」と算定する途方もない誤認に陥っており、これを同地方から撃退する「戦争」を始めるには、少なくとも一週間で一二〇万人規模の兵士動員と大規模な工業動員が必要だと主張して、列席した参加者を震え上がらせた。
しかも、陸軍はラインラントヘの再出兵に関する作戦計画の研究を何年も前から凍結しており、最も新しい計画は、ヒトラーが独首相に就任する前年の一九三二年十月に策定された「D計画」という有様だった。そのため、サローからラインラントヘの派兵につい意見を求められたガムランは、そのような「攻撃的」作戦は想定してこなかったので、即座に実行することは不可能ですと返答した。
「仮に象徴的な行動であるとしても、フランス軍を即座にラインラントヘ派遣するという考え方自体が、現実離れした妄想と言わざるを得ません。我々の軍事機構はこれまで、そのような事態を全く想定しておらず、従って何の準備もしてこなかったのですから」
空軍長官ピュジョー将軍は、もしフランス兵がラインラントに足を踏み入れれば、ドイツはパリ爆撃を視野に入れるだろうと警告し、海軍のビエル提督も、ガムランと同様、ドイツとの開戦を招く恐れがあるラインラント派兵は見送るべきだとサローに進言した。
こうしたフランス軍の「弱腰」とも思える問題認識の背景には、同国が一九二〇年代後半から国防戦略の中心に据えていた「防御重点主義」の思想が存在していた。

西部戦線全史」P84-85より。
このように仏首相サロー自身は軍事的対応を取ることを想定していましたが、それができなかった理由には、英政府だけでなく、自国の軍上層部の反対もあったわけです。


こうした結果の英仏の「宥和政策」は時代背景から両国の国民にも熱烈に支持されたわけで、そういう世論がなおさら英仏に軍事的対応を取れなくしたわけですが、そうした時代背景がドイツ軍ラインラント進駐において軍事的合理性に基づいたフランス軍の行動を阻害したかといえばそういうことはなく、軍は軍で「現実的な考え」のもとに軍事的対応に反対したということは覚えておいた方がいいことなのではと思います。

もう一つの教訓

このようなフランス軍上層部の判断の背景には第一次世界大戦での戦訓がありました。
第一次世界大戦において、鉄条網や砲や機関銃を備えた塹壕や要塞での戦闘は防御側が圧倒的に有利であり、攻撃側に多大な犠牲を強いました。
この第一次世界大戦の戦闘での防御側が圧倒的に有利という戦訓による作戦方針が「防御重点主義」だったわけです。
歴史が示しているように、この「防御重点主義」はドイツ軍の「電撃戦」に対して役に立ちませんでした。
国境沿いの要塞線であるところのマジノ線は、隣接国を通して迂回できる地点があったこともあり、独仏戦においてろくに役立ちませんでしたが、それ以上に航空機や戦車の発達と、それを活かした戦術が戦場の状況をまったく変えてしまっていたのです。
こういうフランス軍の対応から教訓を読み取るとすれば、それは「戦訓を金科玉条のように扱うことで状況判断を誤ってはならない」ということだと思います。
もっとも、当時の航空機や戦車の発達は急激過ぎて、そういう状況の変化を予見することは困難だっただろうとも思いますが。


ポーランド電撃戦 (学研M文庫)
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詳解 西部戦線全史―死闘!ヒトラー対英米仏1919‐1945 (学研M文庫)
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余談

先ごろ発売された「ポーランド電撃戦」はあの厚さであの値段*2なのが気になる。
十分にお買い得だし「西部戦線全史」が安すぎるだけかもしれないとは思うものの。
西部戦線全史」はあの内容であのあとがきなのが気になる。
そういう主張をしたい気持ちは分かるような気がするものの。