「アドバイザー」はビリーバーがどういう人々なのかを知らない

ビリーバーは自分が「真実」を知っているという優越感に酔っています。
ビリーバーが自らが「真実」と思っていたものの誤りを認めるにはその優越感の根拠を失うという不快感情に打ち勝たねばなりません。
ビリーバーの言動はしばしば「正義」の名のもとに人権侵害を伴います。歴史修正主義は史実派や証言者を嘘つき扱いするなどの名誉毀損行為ですし、差別主義が他者危害であることは論を俟たないでしょう。
ビリーバーが自らの「正義」が誤りであることを認めるということは同時に自らの罪深さを認めるということであり、ビリーバーがそうするためにはそれに対する不快感情に打ち勝たねばならないことを意味します。
その不快感情から逃避するためか、より大きな罪を重ねているビリーバーほどより深い「信仰」をしている傾向があります。
ビリーバーがあるビリーバーであることをやめるときというのは、大抵、心がその不快感情を受け入れる準備ができたときか、別の種類のビリーバーに変化したときです。
不快感情を受け入れる能力には個人差がありますし、心がその不快感情を受け入れる準備ができるパターンも人それぞれで、長い時間を必要とするときもあれば、不快感情を受け入れることが決してできない人もいます。
言葉をつくせばビリーバーにも伝わると思うのは、そういうビリーバーの心理を知らないことによる幻想にすぎません。
ビリーバーを説得するということはビリーバーの優越感の根拠を打ち崩す行為でありビリーバーに自らの罪を認めさせる行為であるわけです。
言葉をつくすだけで説得が可能ならば、この世のビリーバーの人数はもっと少なくなっていることでしょう。
いくら言葉をつくそうとビリーバーの方が自らの不快感情に打ち勝てない限り説得されることはありません。そしてそれはビリーバーの側の問題です。
長い長いビリーバーとの論争の中でビリーバーがなぜビリーバーであり続けるのかということに対する心理学的な知見も蓄積されているわけですが、残念ながらはてなブックマーク - ならば問う。彼らに届く言葉とは何なのか? - 模型とかキャラ弁とか歴史とかにそういう知見に基づいた「アドバイス」はありませんでした。
むしろ数々のコメントは「アドバイザー」が概ね「反論はできないけどケチはつけたい人」であることを示しているように思います。