「普通の人々」と運動

「普通の人々」はサヨクのデモで逮捕者が出ると冷笑します。反貧困・反差別・反戦・反歴史修正主義といったことを主張する人々は転び公妨で不当逮捕されても当然と思っているのです。
「普通の人々」は「自分たちの運動」で逮捕者が出た場合、サヨクを非難します。
サヨクが「自分たちの運動」に参加していた場合は運動に加わったサヨクのせい。
サヨクが「自分たちの運動」に参加していなかった場合はそういう警察の姿勢について入れ知恵してくれなかったサヨクせい。運動に協力しなかったサヨクのせい。
いずれにしてもサヨクのせいでそうなったのだと非難します。
警察への非難はその後です。それもそういう警察の体質をさも今まで知らなかったかのように。無論、それはそういう警察の暴力が「普通の人々」である自分たちに向くことになることなど考えてもいなかっただけ。そういう警察の暴力がマイノリティやサヨクに向けられることを当然視していたことにより、その暴力が自分たちにも向きうるということが盲点になっていただけ。
「普通の人々」は「自分たちの運動」へのウヨクの参加を歓迎しマイノリティやサヨクに「大同団結」することを求めます。この「大同団結」において「小異」を捨てることを求められるのはマイノリティやサヨクの方です。それは差別主義や歴史修正主義との共闘を求めることの意味を考えていないというより、「自分たちにとっても不快なマイノリティやサヨクの主張」を折りたいという欲望によるのかもしれません。
「ウヨクとサヨクの対立」を両方を見下しながらニヤニヤ笑いで傍観していた「普通の人々」がこういうときはウヨクを持ち上げます。
「普通の人々」は中立ではありません。その姿勢は反サヨクでありウヨク放置です。
「普通の人々」はそのような形でのウヨクの加担者なのです。ウヨクが伸長するのも当然ですね。