皇国史観と万世一系 - それは昭和初期の問題でも現代の教科書問題でもある

まず、中国人に「天皇家は万世一系ではない」と言われたらどう思いますか? - 模型とかキャラ弁とか歴史とかについて。
読解できる人には読解できているでしょうが、この文は南京事件についてお気楽に「30万人はありえない」と言う人々、そのように言うことで加害国としての自国の歴史を自省するどころかむしろ中国人蔑視に用いるような人々に自らの心性の醜さを自覚してもらうための文として書きました。
無論、それは学問の問題ではありません。そのような種類の発言を行う人々自身の心のあり方を問うているわけです。
そして、そういう文が平易な文であっても理解拒否されること自体は想定内でした。しかし、理解できない人の全てがそういう人というわけでもないでしょう。現代の教科書問題に関する前提知識を共有していないがゆえにその題材がなぜ万世一系なのかを理解できない人もいただろうと思いますし、そもそもこの文の対象となる種類の人々が実在することを知らない人もいただろうと思います。
ゆえに、そういう人向けになぜ万世一系を取り上げたかを説明します。


現代、歴史教科書の記述において歴史学は主に二つの軸で攻撃されています。
一つの軸は南京事件従軍慰安婦や沖縄住民虐殺といった大日本帝国の非道に関する歴史学的事実の記述を消しさりたい、それができないならばできるだけ矮小化したいという歴史修正主義
もう一つの軸は神武天皇からの万世一系や神武東征など歴史学的には否定される記紀神話の記述を史実として記述したい、それができないなら史実と勘違いされるように記述したいという皇国史観の復活。
その具体例として「新しい歴史教科書をつくる会」(以降、つくる会と略します)の教科書が挙げられます。
つくる会の歴史教科書には、史実としてではなく参考としてですが、神武天皇とその東征についての記述があります。そして、参考としての記述となったのは、それらを史実として記述しては教科書検定を通らないがゆえに修正した結果でしかありません。
つくる会とその支持者の問題は歴史修正主義だけではありません。皇国史観の復活にもあるわけです。
歴史修正主義歴史学的事実を嘘扱いする嘘。皇国史観神武天皇からの万世一系など歴史学的事実とは認められないものを史実とする嘘。彼らはそれらの嘘により歴史教育を学問ではないものにしようとしているわけです。

産経脳という言葉について

私ははてなブックマーク - 中国人に「天皇家は万世一系ではない」と言われたらどう思いますか? - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで産経脳という言葉を使いました。この言葉はネットスラングの一種ですが、私はこれを(産経新聞に限らず)産経的な方向性の思考という意味で使っています。産経(フジサンケイグループ)には産経的な方向性があり、歴史修正主義皇国史観復活はその一部です。
例えば、産経とつくる会の関係。今でこそ絶縁していますが、かつてのつくる会と産経の関係は密接なものであり、それは産経の歴史修正主義皇国史観復活へのコミットを意味します。今の(つくる会から分裂した会である)「教科書改善の会」と産経の関係を考えても、産経新聞の記事の傾向を考えても産経のそれらへのコミットは変わりないというものでしょう。
この言葉を社名によらない形で言いかえるとすれば、その一面の表現としかなりえませんが、それは現代に生き続ける大日本帝国イデオロギーというものでしょう。

皇国史観を流布する側がそれを信じているか信じていないかは重要ではない

歴史教科書に皇国史観を記述したい人々にしても本気で神武天皇からの万世一系を信じているわけではないのかもしれません。
しかし、それは重要なことではありません。
皇国史観にとって重要なのはそれ自体が支配の道具として機能するか否かです。
初期の大日本帝国は元老による寡頭政治だったわけですが、その元老は皇国史観を信じていたでしょうか?
おそらく彼らは天皇が神の子孫などと信じていなかったでしょう。彼らは国民支配の道具としてのカリスマとして天皇を持ちだしただけで、彼らにとっての天皇は替えのきく道具でしかなかったでしょう。
天皇讃歌として君が代を歌い、皇祖神であり太陽神である天照大神の象徴として日の丸を用い、記紀神話を史実として教え歴史教育を思想教育手段として用い、天皇を神の子孫である現人神として崇拝することを求めたのは、そういう天皇崇拝に立脚した国民化により日本国民を扱いやすい道具とするためだったというものでしょう。
そして、扱いやすい道具、天皇の権威に逆らえない道具として振る舞うのであれば、そのようにして支配される側が天皇を現人神と本気で信じている必要もなかったでしょう。
信じていないのに表向きは信じているようにふるまうよりは本気でそう信じこんでしまった方がそういう社会では、少なくとも精神的には、楽に生きられただろうとは思いますが。

皇国史観の結果としての昭和初期

皇国史観に基づく天皇崇拝に立脚した国民化がなされたからといって大日本帝国は最初から昭和初期の軍部ファシズム時代のような国だったわけではありません。
天皇制に関する歴史学的研究は禁止されないまでも迫害されたりしていましたが、大日本帝国は対外的には立憲君主国としてふるまっていましたし、統治能力に問題があった大正天皇の時代には結果として内閣と議会が国家意思決定の主役となりましたし、君主機関説の日本版である天皇機関説が政治の主流だった時代もありました。
しかし、その天皇機関説を排撃するような国民、軍部ファシズムを支えたような国民を育成したのは皇国史観に基づく教育というものでしょう。そういう国民の熱狂的な支持という意味では昭和初期の日本は衆愚政治的な意味でのポピュリズムの国でもあったのかもしれません。ただ、仮に昭和初期の日本をそのようなポピュリズムの国として、国民がもとから「愚か」であったわけではありません。「愚か」な国民になるように育成されたのです。
そして、そのような「愚か」な国民を育成したという意味において皇国史観万世一系は昭和初期の日本の問題という近現代史の問題でもあるわけです。

イデオロギーを持ちこんでいるのはどちらか

つくる会と歴史教科書の問題を知れば、歴史修正主義皇国史観を同時に唱えるような人が実在すること、私が産経脳と表現したような人が実在することはわかると思います。
そのような人、あるいはそのような人に親和的な人を対象とした文だからこそ、私は歴史修正主義皇国史観を対置し、皇国史観の代表として神武天皇からの万世一系をとりあげたわけです。
当然、この文脈においては万世一系南京事件を同類の宣伝としているわけはなく、万世一系南京事件否定論・矮小化論を同類の宣伝としているのです。
説明は以上です。


現代の日本では歴史教科書採択問題において彼らのような歴史教育大日本帝国イデオロギーを持ちこもうとしている側がそれに反対する側を「イデオロギー闘争だ」と非難し、歴史学に基づいた記述を「イデオロギー教育だ」と非難しています。
そして、つくる会やそこから分裂した会である「教科書改善の会」の教科書が実際に採択されているのを見ると、日本社会は彼らのような人々の試みの初期消火に失敗していると思います。というより消火する気がないのではないか、燃え盛ってもいいと考えているのではないかとすら思います。そのような試みに無関心というより、むしろそのような試みの消火をしようとすることが非難されることを考えれば。