この国には徴被曝労働制が必要だ

この国には徴被曝労働制が必要だ。
この国には多数の原子力発電所がある。
原子力発電所を稼働させるにしろ廃炉するにしろ被曝労働が必要となる。
被曝労働は許容線量と作業場所の線量により一人の人間の作業可能時間は限られる。
労働者の被曝は許容線量より下に抑えねばならない。*1
その考えに立つ限り、線量の高い場所では一人の人間は短い時間しか作業できない。
そのような作業は必然的に多数の人数を必要とする。
その人数をどのように賄うのか。
人数を賄えず一部の人間に許容線量を越える作業を強いるくらいなら国民の中から徴用すべきだ。
線量の高い場所での作業が必要なのは原発事故の場合だけに限らない。
原発廃炉においても必要となる。
原発の推進・反対に関わらず既に原発がある以上、老朽化した原発廃炉は必要だ。
廃炉に必要な被曝労働者をどのように集めるのか。
経済的格差を利用して集めてはならないと私は思う。
未来のリスクを避けたいと思いつつも経済的困窮ゆえに今日を生きるために貧困層が被曝労働に従事するということはあってはならない。
徴兵制は悪いが経済的弱者を志願に追い込み志願者の多数を貧困層が占める経済徴兵制はなお悪いと私は考える。
徴兵逃れの手口はおくとして徴兵制は富裕層も対象になるという点において経済徴兵制より公平だ。*2
ゆえに私は被曝の影響が若年層に比べて少ない中年以上の国民を被曝労働に徴用する徴被曝労働制を作るべきだと思う。
被曝労働は高度の技能を必要とする作業ばかりではない。
高度の技能を持つ原発労働者はその技能が必要な作業のために単純作業などさせずに被曝労働時間を温存すべきで、高技能労働者でなくても代替可能な単純作業を担うための被曝労働者をそれで賄うべきだ。
私はこれを実現可能性や経済的合理性ではなく筋論として主張する。
また反対ならば対案を出せとも言わない。
代わりに問う。
志願者が不足するゆえに一部の人間に平時の許容線量を越える被曝労働を強いる悪。
経済的弱者を被曝労働に追い込む悪。
被曝労働者を集めるにあたっての多重下請け構造による搾取の悪。
これら被曝労働に関する諸々の悪を容認するのかと。
既に多数の原発が存在する以上、被曝労働が必要という悪は無くせない。
しかし、被曝労働の必要性に伴う悪は無くせないまでも最小化することはできる。
誰かに被曝労働をさせることが避けられないなら、せめてその被曝労働を公正に分担する仕組みが必要だ。
原発がエネルギー安全保障のために必要だというのなら原発は国有化すべきで被曝労働に従事する労働者も民間で多重下請けをするなどということをしてはならない。
原発に伴う問題から「子どもを護れ」というのなら尚更今の大人は廃炉作業に従事する必要がある。
被曝労働の悪に向き合うのに原発推進原発反対も関係ない。


東京湾に大規模災害廃棄物処理場を作ろう。
東日本大震災の被災地を思うなら一刻でも早い除染と原発事故処理と災害廃棄物の処理が必要だ。
一刻でも早く災害廃棄物を処理するには被災地外でも災害廃棄物を処理する必要がある。
だが、原発事故が災害廃棄物を「被曝瓦礫」としてしまったことが災害廃棄物の広域処理を阻害している。
被曝による健康被害に対する恐怖と測定結果に対する不信が線量的にまったく問題のない災害廃棄物の処理にも問題をきたしている。
この問題に対し、私は東京都が既に災害廃棄物の処理を受け入れていることを評価する。
だが、それをもっと進めて東京湾に大規模災害廃棄物処理場を作るべきだ。
海運は運送コストが安いし、湾内であれば処理済みの廃棄物を埋め立てに使うこともできる。
廃棄物処理で仮に汚染が発生しても湾内であれば海洋汚染を湾内に限定することも可能となる。
陸運で地方の山奥の処理場に運ぶなど愚の骨頂。
というような経済的合理性やリスク論的合理性で私はこれを主張したりはしない。
私はこれを筋論として主張する。
放射能汚染されているかもしれないと恐れられている瓦礫の恐れの部分は東京の電気のために地方にリスクを押しつけた結果の産物だ。
その産物をまた別の地方に経済的格差を利用して処理費用を餌に引き受けさせるというのは筋が通らないと私は思う。
東京の電気のためのリスクの産物はまず第一に東京で引き受けるべきだ。
全てではなくてもいい。
積極的にかつ大量に引き受け、また、地方が請け負うことに金銭的なメリットが無くなるくらいに格安で請け負い、そしてそれを広報すべきだ。*3
私はそのようにして災害廃棄物を処理して東京湾埋立地を作り、その一角には震災と原発事故を記憶するための碑を作り、災害廃棄物の処理にもめた件を含め後世に伝えるべきだと思う。
また、原発推進原発反対、反原発と反・反原発脱原発デモを企画した人々とそのデモを嗤う人々、地方にリスクを押しつけた側の人間によるリスクを受け入れた側に対する誹謗、そのような地方にリスクを押しつけた側の人間の負い目の無さ、それら原発問題で人々が見せた姿も後世に伝えるべきだと思う。
現代の日本のマジョリティの自省を拒否する姿勢*4は筋金入りで、原発問題で可視化された問題点ではそれが一番ひどいというものだ。

*1:作業する人が仮に原発の推進に責任を問われる立場の者であろうと許容線量を越える作業を強制してはならないと私は思う。

*2:原発の推進にしても「戦場に行くのはどうせ貧困層」ならぬ「被曝労働するのはどうせ貧困層」が一役買ったのではないかとも考える。そのような形での原発の容認はあってはならない。「自らも被曝労働に従事する覚悟のある者だけが原発推進せよ」ということだ。

*3:無論、私は実現可能性や採算の話などしてはいない。例えば「東京に原発を作れ」に実現可能性から反論する人間を私はバカだと思う。

*4:仮に自省らしきものがあっても「みんな悪かったんだ」で「自分たちが悪いんだ」ではないのが基本。「みんな悪かったんだ」を、相手側の責任もみんなで引き受けようとするのではなく、自分側の責任を全体で希釈しようとするために用いるのは本当に醜悪だ。