「蘭・バタビヤ法廷事件番号第二五号 三警事件資料」にはどういうことが書かれているか

私の一番恐れていた事件は、慰安所事件であった。
これは慰安婦の中には、スラバヤから蘭軍下士官の妻君五人の外、現地人七十人位をバリ島に連れてきた件である。
下士官の妻君五人は、終戦後直ちに送り返したが、スラバヤ着と同時に現住民に殺されたとのことであった。
この外にも、戦中の前後約四ヶ年間に200人位の婦女を慰安婦として奥山部隊の命により、バリ島に連れ込んだ。
私は終戦後、軍需部、施設部に強硬談判して、約七十万円を本件の工作費として貰い受け各村長を介して住民の懐柔工作に使った。
これが完全に効を奏したと見え、一番心配した慰安所の件は一件も訴えが出なかった。

「蘭・バタビヤ法廷事件番号第二五号 三警事件資料」より引用。供述者は元海軍兵曹長
現地調査などで裏を取らない限りは供述内容を完全に肯定することはできませんが、この供述が真とすれば、この慰安所事件は
・オランダ軍下士官の妻の他、現地人を慰安婦としたこと。
・その慰安所終戦時まで運営していたこと。
・軍部隊命で慰安婦を連れ込んだ例もあったこと。
慰安婦の連行形態または待遇あるいはその両方(加えて慰安所の設置自体も)は戦犯裁判的に懐柔工作で口止めしなければならないものだったこと。
を示しています。
また、この慰安所事件がいわゆるスマラン事件(白馬事件)とは別のものであることも明らかでしょう。