大和型は日本海軍の大艦巨砲主義の証。アイオワ級はアメリカ海軍の航空主兵予測の証。

かつて戦艦は洋上戦闘の主役でした。
洋上戦闘が艦船同士の撃ち合いの時代、巨砲の攻撃力と同級以下の相手の火砲に耐える防御力を備えた戦艦は艦隊決戦の最終兵器であり、その存在が洋上の戦いの勝敗を左右する戦略兵器でした。
大艦巨砲主義とはそのような戦艦同士の戦いが勝敗を決するという思想のもとでの艦船の攻防力強化競争であり、船体の大型化は攻防力強化のための手段でした。
しかし、第二次世界大戦においては航空機がより優れた火力投射手段となり、それを搭載する航空母艦が洋上戦闘の主役となりました。
アメリカ海軍のアイオワ級戦艦はそういう時代が来る可能性を見越して建造された戦艦でした。

一方、「新しいニーズ」とは、艦隊空母と足並みが揃えられる高速性が求められたことだ。というのも、アメリカ海軍は、次の戦争では空母が洋上戦闘の主役になる可能性が高いとみており、戦艦は空母の有力な直援艦として、空母機動部隊に随伴できる速さが必要と考えられた。この点、前二級は空母機動部隊に随伴可能ぎりぎりの速力だったが、アイオワ級は問題なく随伴できる最大速力が付与された。本級の高速性能は金剛型に対抗するためといわれることもあるが、本級に比べて約三〇年も前に建造された敵艦にいまさら対抗するという説明には無理がある。「一部にはそのことも含まれていた」程度だったのではあるまいか。

歴史群像2015年8月号P14より引用。
アメリカ海軍は第二次世界大戦中も戦艦を建造し続けましたが、全部が全部、大艦巨砲が勝敗を決するという思想のもとで造り続けたわけではありません。
艦隊防空など空母機動部隊にも有用な艦として造り続け、そして実際にそのように活用しました。

対して、日本海軍の大和型は戦艦同士の戦いが勝敗を決するという思想のもと、質的優位を得るために造られた兵器でした。大西洋から太平洋への迅速な移動を考えればアメリカ海軍の戦艦の大きさはパナマ運河を渡れる幅に制限されます。それは搭載可能な砲の大きさも制限されるということであり、大和型はそれを上回る砲を持つ兵器として造られ、実際に上回りました。しかし、洋上戦闘の主役が空母に変わったことによる状況の変化により、それによる優位を艦隊決戦で活かす機会が来ることはありませんでした。

日本海軍にとっては航空機も巡洋艦駆逐艦も艦隊決戦において戦艦の数の劣勢を埋めるための兵器であり、日本海軍はそれらの兵器で敵軍の戦艦の数を削った上で戦艦同士の戦いで勝敗を決することを構想していました。
ところが、実際に開戦してみれば、空母が洋上戦闘の主役となったことを日本海軍自体が示すこととなり、空母機動部隊に随伴できるだけの速度性能を持たない戦闘艦はその戦力的価値を大きく減じていました。

日本海軍の戦艦でそのように空母機動部隊に問題なく随伴できる速度性能を持っていたのは金剛型のみ。
速度性能の高さは重巡と組み合わせて遊撃部隊を編制するなどの用途にも有効で、金剛型が旧式であるにも関わらず活躍したのには性能的理由があるわけです。

大和型もアイオワ級も戦艦ですが、それらは運用思想の異なる兵器であり、大和型を建造することを決めた当時の日本海軍は思想面において大艦巨砲主義の軍隊でした。
だからといってそれをもって当時の日本海軍が悪いとは言いません。
技術革新に伴う戦闘の様相の変化を予測することは困難であり、技術革新に対応するための組織改革にも既得権者の抵抗がありがちで、運用思想が保守的なものになることはよくあることですから。
ただ、大和型とアイオワ級の性質の違いは兵器運用思想において日本海軍がアメリカ海軍に負けていたことを表してはいると思います。
戦艦と空母の建造比率をもって日本海軍の方がアメリカ海軍より航空主兵に転じていたなんていうのは、こういう兵器運用思想の違いを無視した暴論というものでしょう。

日本海軍はもっと戦艦を活用できなかったか

ここからはまったくのおまけ。
第二次世界大戦における戦艦の用法というと機動部隊随伴と艦砲射撃による対地攻撃が思い浮かびます。

機動部隊随伴といえば、大和型はサウスダコタ級と同等の速度性能を持っていたので、サウスダコタ級が空母機動部隊に随伴可能だったことを考えれば(燃料消費を度外視すれば)同様に直援艦として活用できたのではないかと夢想することもあります。例えばもととなった戦艦の性能的に低速な空母であるところの加賀の直援艦とか。
まだ日本海軍に物量があった頃であったミッドウェー海戦で大和を含む「主力艦隊」が後方で無駄に燃料を使っていただけだったことを考えれば日本海軍の兵器運用思想的に無理だったのだろうなあと思いますが。
日本海軍は物量があっても「精緻な作戦」のために戦力を分散しすぎなのではないかと素人目に思いますね。

艦砲射撃による対地攻撃といえば、アメリカ海軍が上陸支援などの艦砲射撃に戦艦を有効活用していたことはよく知られていることです。そういう用途には低速な旧式戦艦も役立ったことも。
そういうように空母機動部隊の艦載機で航空優勢を得た上で、戦艦などが艦砲射撃を行い、その上で上陸作戦を実施するというようなことが日本海軍にできたかといえば、方針的に無理だったでしょう。
ミッドウェー海戦で機動部隊の主力を失ってから消極的になり「不沈空母である敵の陸上航空基地を(不沈ではなく可沈の)空母で攻撃するのは不利なので、敵の海上兵力に対してのみ使いたい」*1となってしまった日本海軍には。
その結果が、基地航空部隊による遠距離攻撃、高速戦艦巡洋艦による通りすがりの奇襲砲撃、敵に遠くに上陸しての(徒歩で運搬可能な装備しか持てない)歩兵による攻撃がバラバラに行われるというよく知られている事態。
戦線を広げすぎて輸送船が不足している状態では戦力の迅速な集中も無理で、乏しい輸送力で前線に戦力を逐次投入しては補給断絶による餓死と各個撃破の繰り返し。
私は日本が大和型建造時点で大艦巨砲主義であったことは仕方がないとは思いますが、こんな敵基地を落とせるわけもない作戦を継続して多くの将兵を無駄に死なせたことは大いに責められるべきことだと思います。
戦線の広げすぎとこういう用途への輸送船の投入が輸送船不足を悪化させている面もあって、資源地帯を押さえていても資源を本土に送る輸送船が不足しているがゆえの生産力低下とか日本側の自滅としかいいようがありません。
この件に関し、敗戦という結果は変わらないとしても、日本軍がしない方がいいことを継続して行ったことは軍事的視点からも批判されて当然のことだと思います。

*1:歴史群像2015年8月号P76