「主戦場」への反発は否定論者"に対しての"説明や説得は無意味であることを示している

今更ながら慰安婦問題否定論者の主張とそれに対する反論を扱った映画「主戦場」に対する訴えについて。
慰安婦論争の映画「上映中止を」 出演者の藤岡信勝氏ら:朝日新聞デジタル
一般上映可能性ありの契約、監督は商業上映試写会の招待も実施、その上で出演者のケント・ギルバート*1は上映を歓迎していたことから、私自身はこれを「第三者に訴えの正当さを誤認させるための嘘」と認識しているが、これについて私が指摘したいポイントは「否定論者は反論に対して再反論をしない」こと。
彼らは反論の存在を知らないわけではない。
反論の存在を知った上で、虚偽を指摘されてもそれに向き合わず同じ主張を繰り返している。
更に言えば「日本人捕虜尋問報告第49号」の扱い*2などを見れば、彼らは知った上で、意図的に捻じ曲げて、あるいは認知の歪みから、虚偽を主張しているのだ。
彼らは決して無知ゆえに騙されているわけではない。彼らは欲望ゆえに嘘を捏ねあげて騙し、欲望ゆえにその嘘に騙されたがっている。
彼らは、帰属意識を持つだけで気持ちよく酔える共同幻想(愛国ポルノ)自体を守りたいのかもしれないし、それを売る商売的立場を守りたいのかもしれない。
人により欲望の源泉は異なるかもしれないが、彼らは欲望から結論が決まっていて、そのために理屈を捏ねているのであって、理屈の破綻は問題ではないのだ。
説明や説得に意味がある相手は理屈に従って結果を判断できる人であって、欲望から結論が決まっている人に説明や説得は意味はない。
性差別主義者は何が性差別なのか理解しようとしない、あるいは理解しないふりをする。セクハラする人は何がセクハラなのか理解しようとしない、あるいは理解しないふりをする。愛国ポルノの愛好者やその売人は史実を理解しようとしない、あるいは理解しないふりをする。
ならば、なすべきことはそういう人々"に対しての"説明や説得ではない。
必要なのは、公開の場での反論の提示で理屈が通じる人の理解を得ること、論文や国際共同研究などによる学問の場での位置固め、国連などを通しての国際社会での合意形成等々をもってこの社会自体をアップデートしていくことなのだと思う。
欲望から結論が決まっている人は置き去りにするしかないのだ。