「間違っている論理展開」と「わら人形論法」に耐性の無い人々

似非科学歴史修正主義、差別主義といったダマシの多くに共通する特徴として「間違っている論理展開」と「わら人形論法」が挙げられます。

間違っている論理展開

論理展開には様々な約束事があります。ダマシはその約束事を破ることで己が望む解を導き出します。

間違っている帰納的論理展開

帰納的に解を求めるには「適切な事例の選択」と「因果関係と相関関係を混同しないこと」が必要です。
この約束事を破り、恣意的に事例を選択したり意図的に因果関係と相関関係を混同したりすることによりダマシは思惑にそう解を導き出すことができます。
水関係のトンデモ*1では恣意的な事例選択によりあたかも水が言葉を認識しているかのような解を導き出していますし、植物関係のトンデモ*2では因果関係と相関関係を混同することであたかも植物が会話や音楽を認識しているかのような解を導き出しています。
恣意的に事例を選択すればダマシの思惑通りの「○○の法則」を導き出せますし、因果関係と相関関係を混同すればダマシの思惑通りの「××は△△だから□□」という主張ができるというわけです。

間違っている演繹的論理展開

演繹的に解を求めるためには「前提が正しいこと」と「前提の適用が正しいこと」が必要です。
この約束事を破りホニャララすることによりダマシは思惑にそう解を導き出すことができます。
南京事件否定論の定型句、「南京の人口は当時20万人なのに30万人も殺せるわけがない。ゆえに南京大虐殺は虚構だ」とか。殺害人数30万人に関しては諸説あるのでさておき、人口20万人は日本軍侵攻後の安全区の人口。前提が間違っていますし、時間と空間において前提の適用も正しくありません。

反証不可能

「神は因果を超越している」とか。
なんか書き方がアレになってきていますが気にしないでください。

わら人形論法

わら人形論法は相手の「裏の意図」や「背景」を一方的に決めつけ、その「裏の意図」や「背景」を攻撃する論法のことです。
ユダヤ陰謀論を否定するのはユダヤの手先」とか「南京大虐殺を否定しないのは中国の手先」とか「平和主義者はスイスやスウェーデンに妙な幻想を抱いている」とか架空の敵を作り出してそれを攻撃する手法。
相手の主張を論破するのではなく、勝手な解釈や勝手に作り出した相手の人物像を攻撃することで相手の主張を論破したかのような印象を作り出すわけです。
この論法には重大な問題があります。それはこの論法を真に受けた人が「相手は何々だ。何々の言うことは信じない」という相手の意見を聞く耳を持たない状態になることです。
「間違っている論理展開」に騙され「わら人形論法」を真に受けてしまうことでビリーバー一丁上がりです。

これらの手法は有効だから使われる

ダマシは論理面では「間違っている論理展開」や「わら人形論法」でそれらしい体裁を装い、感情面では社会心理学に基づいた手法で人心掌握するわけですが、ダマシがそういう手法を用いるのはそれが彼らの望む効果を発揮するからです。
つまり、そういう手法に騙されやすい人がそれなりにいるということです。

予想される人間像

論理面でのダマシの手法は基本的知識さえ持っていれば騙されようのない荒唐無稽なものです。*3
実際問題、ダマシに騙され、あまつさえネット上でダマシの主張を受け売りしてダマシの宣伝の二次媒体と化すには騙される方がいくつかの条件を満たしている必要があります。簡単に思いつくものを述べれば「ダマシが騙そうとしている分野にそれまで興味を持っていなかった人間」、「論理的思考を修得していない人間」、「積極的にダマシの受け売りを行なう動機を持つ人間」といったものが挙げられます。
「ダマシが騙そうとしている分野(科学、歴史、社会等)にそれまで興味を持っていなかった人間」はそれまでの無関心に因る無知ゆえに恣意的な事例の選択に対し反例を思いつくことができないでしょうし、「論理的思考を修得していない人間」は因果関係と相関関係を混同するような歪んだ手法による論理構築による錯誤に気づけないでしょうし「わら人形論法」のおかしさにも気づけないでしょう。
特に利益も無いのにダマシの信奉者となり周囲に説法を行なうような「積極的にダマシの受け売りを行なう動機を持つ人間」となるためには何らかの心理的条件、例えば虚栄心や親切心や攻撃性を満たしている必要があるでしょう。ダマシが展開する「真実」を信じた上での「真実」を知らない相手に対する優越感に基づいた虚栄心、「真実」を知らない相手に対する哀れみに基づいた親切心、信じる「真実」を否定する相手に対する攻撃性、「真実」を知らない愚かさに対する攻撃性、日頃の憂さを晴らすための攻撃性といったように。

ダマサレ気質、ROMダマサレ、行動ダマサレ

以降、便宜的にダマシに騙されやすい人格的傾向を持つ人を「ダマサレ気質」、ダマシに騙された人でダマシの受け売りを行なわない人を「ROMダマサレ」(読むだけメンバーダマサレ)、ダマシに騙された人で積極的にダマシの受け売りを行なう人を「行動ダマサレ」と定義します。

自称中道な人々

世の中には南京事件否定論ホロコースト否定論といった歴史修正主義、人種差別・民族差別・職業差別といった差別主義、かえって国際関係に悪影響を与えかねない似非国防論を唱える自称中道な人々が存在します。
そういう人々の主張は互いに非常に似通っていますので、ネット上の場合、ネットの匿名性を利用して少数の人間が多数を演じているのではないかと疑われることもあります。(実際、IPと環境を見る限り一人で複数を演じているとしか思えない事例も存在します)
私もそういう面はあると思いますが、似通った人が同じような手法の宣伝に洗脳され同じような主張をしている面も強いと推測します。
「同じような思考形態で同じような心理形態(ダマサレ気質)」で「同じような共同体に参加」している人物であるがゆえに同じような行動をする、つまり、「自称中道だから似通った行動をする」のではなく「似通った人々が自称中道になる」というわけです。

「臭いものに蓋」戦略が通用しない時代

自称中道な人々はネットウヨクとも呼ばれるわけですが、実際、ネットの影響でそういう人々が増えた面はあると思います。
歴史修正主義・差別主義・似非国防論といった主張は以前からありましたが、基本的にそういう主張は一般社会から隔離され、そういう主張をするのは宗教右翼とか不幸にもその手の宣伝本に感化されてしまった人とか少数の人に過ぎませんでした。ダマサレ気質な人は今も昔も同じようにいたでしょうが、ネットが普及する前はそういう主張から隔離されることで概ね保護されていたわけです。
広まってしまってはまずい主張に対しては主張を広げる場所をできるだけ持たせないという伝統的な「臭いものに蓋」戦略はネットが普及するまではそれなりに有効でしたから。
しかし、インターネットの普及によりダマシは匿名掲示板という不特定多数が利用する環境で容易に身上を隠して宣伝を行なえるようになりました。そして、ダマシの宣伝から隔離されることによりダマシから守られていた人々がダマシの宣伝に接触するようになりました。
こういう状況ではダマシに対する抵抗力を持たないダマサレ気質な人がダマシの宣伝により「真実に目覚めた」と勘違いしてしまうのも仕方ないというものでしょう。
かくしてダマサレ気質な人は、南京事件否定論でいえば「南京の人口は当時20万人なのに30万人も殺せるわけがない。南京大虐殺を信じているのはそんなことも分からない痛い連中」とか基本的知識があれば騙されようもない宣伝を鵜呑みにし、仮想敵に対する先入観を植え付けられ、仮想敵を見下すことで憂さを晴らしたり知的優越感を満たしたりという行動をする自称中道な人*4になってしまうわけです。
そういう自称中道な人には、実際に仮想敵を叩く「行動ダマサレ」だけでなく、読むだけで叩きに参加しない「ROMダマサレ」も相当いることでしょう。

推測が正しいとして、どうすればいいか

この推測が正しいと仮定した上で、歴史修正主義・差別主義・似非国防論といった主張に対してどうすればいいでしょうか。
私はインターネットを規制することで「臭いものに蓋」戦略の有効性を再び高めようというような対応には反対です。
「臭いものに蓋」戦略はかつてはそれなりに有効でしたが本質的解決につながらない場当たり的な対応に過ぎません。
本質的解決のためには「ダマサレ気質」な人をできるだけ減らすという根本的な対応が必要です。論理面では科学哲学、心理面では社会心理学を公教育で学ぶ機会を増やすといったように。

*1:会話や文字で「美しい言葉」に接した水を凍らせると「美しい結晶」ができ、「汚い言葉」に接した水を凍らせると「汚い結晶」ができるというトンデモ。そもそも美しいとか汚いとかいう表現自体が随分と人間主観で科学的ではありません。

*2:音楽を聞かせたり話しかけたりすると植物の成長が良くなるという事実に基づいたトンデモ。植物の成長と声や音楽は、音波による振動が植物の成長を促進することと、声や音楽が音波であることにより、音波を介して相関関係にあるわけです。

*3:このため似非科学批判本ではしばしば似非科学歴史修正主義や差別主義を信じる人がいること自体が嘆かれます

*4:匿名掲示板における共同体の集合知(集合痴)を共同体に一体化することで自分の知力(痴力)と勘違いしているような自己誇大妄想な人とか、「普通」であることが憧れになっている人もいたりして