沖縄戦の風景

地元民「スパイ」を殺せ

このように沖縄戦では、作戦を練り上げ、戦闘を指揮する肝心要の守備軍首脳の間で、基本的戦術をめぐって終始意見が対立した。あまつさえ戦況判断の面でも上級司令部と現地軍とが極端な食い違いをみせたことは、たんに”困りもの”という以上に、一般の兵士にとっても、また戦禍に巻き込まれた住民にとっても深刻な影響を与えずにはおかなかった。とりわけ、作戦の食い違いによってもたらされた戦況の悪化は、将兵の間に疑心暗鬼を生んだ上、やがてそれが、「地元住民の中に敵に内通するものがいる」としてスケープ・ゴート探しをするおぞましい事態を生んだからである。つまり、軍は住民のスパイ活動によって戦況が悪化したとして苛酷な「スパイ狩り」を始めたのだ。
そんな折、地元の一女性がスパイ容疑で逮捕された。彼女は、首里郊外で懐中電灯を振って敵に合図をしたという容疑であった。だが、その事実を裏付ける証拠は何も示されなかった。いや、示す必要さえないかのように同女は軍司令部壕の裏手の旧師範学校の農場跡で兵士や軍属たちによって竹槍で刺殺されたという。

写真記録 これが沖縄戦だ 改訂版P89-90より。
沖縄戦における日本軍によるスパイ容疑での地元民殺害は、日本軍の沖縄人に対する不信感をよく表している事件です。
(全てでないにせよ)本土から来た兵士が沖縄人を言葉の通じない信用できない半植民地人とみなしていたことは、沖縄戦の背景事情として知っておくべきことと思います。

アメリカの一戦史家は、沖縄の学徒兵たちで結成された鉄血勤皇隊や女子学徒隊などを含め、「罪もない地元住民の死の犠牲は何の役にも立だなかった」と書いているが、では、なぜかくも数多くの若者たちが、身を犠牲にしてまで戦わなければならなかったのだろうか。
八原高級参謀によれば、それは、「日本本土が戦場となった場合、軍隊のみならず、老幼婦女子に至るまで打って一丸となり、皇土防衛に挺身すべきであることは、全国民の抱懐する理想であり指導精神で、わが指導者たちの強調してやまぬところであったからだ」という。結局、沖縄の若き学徒たちは、本土他府県の学徒たちにさきがけて戦場に身を投じ、教えこまれてきた理想を実現するために命を捧げた。言いかえると竹槍戦闘でさえも強行しなければならなかったというわけである。
だが、軍首脳部は、というより戦争を体験したことのある将兵は、「作戦上の見地からすれば、現代科学戦、とくに狭隘な島嶼戦において竹槍を手にした非戦闘員を熾烈な戦火に投じても、戦闘部隊の行動を妨害するのが関の山で有害無益」と判断していた。それをも押してあえて竹槍作戦を推進し若人たちを死地に送りこんだのである。

同書P205より。
日本軍は民間人による竹槍作戦を有害無益と認識していた上で実施しました。
無駄を承知での実施は、戦艦大和の沖縄特攻が、その無理を認識されながら「一億総特攻のさきがけ」として実施されたのと似ています。*1
「後に続くもの」への「強制」の根拠となる「既成事実」を作るための、無意味なことを承知での「犠牲」の強制。
こういう根拠作りの手法は今の日本にも受け継がれているのではないでしょうか。無意味と分かりつつも「既成事実」として根拠を作るために行われる作業などの形で。

ところがその後、同島守備隊は、攻撃の刃を敵上陸部隊に対してではなく、守護の対象となるべきはずの地元住民に向けた。あげく一歳二か月の幼児を含む二〇人の住民を法的措置もとらずにスパイ容疑でつぎつぎに殺りくした。こうして悲劇に充ちた沖縄戦の中でも「久米島事件」として知られる「友軍による住民殺害」というおぞましい傷痕を残すことになる。
久米島は、早くも昭和二十年一月二十九日に米潜水艦の砲撃を受けたのを手始めに、上陸前までに米艦載機による爆撃や銃撃で全民家の約二〇パーセントが焼失もしくは破壊されていた。そのため、つとに砲爆撃の恐ろしさを知っていた島の住民は、村当局の指導もあって米軍上陸と共に素早く部落後方の山中や丘陵地に掘られた各自の壕に避難していたので、米軍が進撃したときには、村内はいずこももぬけの殼であった。そんなこともあって、米軍は、上陸したその日のうちに戦車で全島をほとんど制圧し終えて直ちに軍政を布いた。そして宣撫班員を使って各地にひそむ住民に下山して自分の家へ帰るよう勧告せしめた。
ところが、山中に潜伏していた久米島守備隊(隊長、鹿山正兵曹長)は、敵の攻撃から島を防ぐのがかれらの任務だという大義名分をかかげ、日頃から地元住民に食糧や生活必需品を強制的に供出させていた。したがって、住民の下山は「敵に通じる行為」だとして禁じ、違反者は厳重に処分すると警告を発していた。その結果、村人たちは、集団で下山すれば目立ち過ぎて「友軍」を剌激し、報復されるのを恐れて控えていた。しかし日々悪化していく食糧難からやがて一人降り二人降りして上陸から旬日も経たないうちに上陸地域の仲里村では、ほとんどの住民が山を下りて米軍政要員の監視下で日常生活に立ち戻った。
そんな状況の下で「友軍による住民殺害事件」は起こったのである。
(中略)
こうした罪もない住民が殺害されたのは、戦闘の最中や極限状況下においてではなかった。
前述したとおり米軍は上陸したその日から軍政を布いたが、七月十四日には、区長や村長らもあらたに選出したほか、八月十三日には村長や区長、村会議員、警官、教員らを残らず集めて、六時間以内に日本が降伏することになるので軽挙妄動をつつしむよう告げていた。しかも八月十五日には、米軍は、わざわざ村の中央部あたりにラジオ受信機を設置して日本の降伏ニュースを住民に流してもいた。
仲村渠さん一家が虐殺されたのは、その後の八月十八日のことであり、一方谷川さん一家の惨殺も八月二十日のことである。
久米島守備隊は、住民に食糧を供出させながら山中を逃げ回ったあげく、九月七日には沖縄本島から避難してきた敗残兵を含め、総員四一人が、無傷のまま米軍に降伏して島を去った。
戦後、鹿山元守備隊長は、新聞記者の質問に答え、同守備隊は小人数だったので、住民を処刑する前に軍法会議を開くヒマはなかったと「開き直った」形で述べた。しかも証拠もなしに幼い子ども達までスパイとして殺害したことについてもつぎのように語った。
「……ワシの見解はね……、厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先に、島民にやられてしまうということだったんだ。なにしろワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね。島民が向こう側にいってしまってはひとたまりもない。だから断固たる処置が必要だった。島民を掌握するためにワシはやったのです」。
この発言は、後に久米島の村議会で弾劾決議を採択させるほどの反響を巻き起こしたが、旧軍人のこうした”開き直り”によって、人々はあらためて一体、沖縄戦とは何だったのか、と問い返さざるをえなくなった。この事件が沖縄戦の内実をあまりにも象徴的に露呈せしめていたからである。

同書P232-235より。
久米島事件は日本軍の地元民に対する凄まじいまでの不信を雄弁に物語る事件だと思います。日本軍の地元民に対する不信感は殆ど恐怖といっても良いものでした。日本軍による住民の殺害が「戦闘の最中や極限状況下においてではなかった」点も特筆すべきことでしょう。

伊藤氏によれば、沖縄戦の特質はつぎのようなものであった。
「思うに沖縄の戦闘は、帝国陸軍最後最終の一戦としては、その規模の小なるを悲しむほかないが、あの兵力と、あの環境とにおいては、戦略も戦術も、大本営から苦情の出るようなものではなかった。そうしてその戦闘には、他と異なる三つの特徴があった。一は日本の領土内における初の陸上戦闘であったこと、二は市民が直接に戦闘に参加したこと、三は航空総攻撃が大規模の「特攻」を中心として敢行されたことであった。硫黄島攻略戦も日本領土に加えられた陸上戦闘であったが、そこには住民は一人もいなかった。それが沖縄戦では疎開を行なったのちになお数十万の市民が戦場の周辺に住み、その結果、じつに十五万人強の多数が戦火の犠牲となったことは、悲惨の最たるものとして記録せねばならない」
ところで、私は以上のような見方が、きわめて例外的なものでしかないことを指摘しないわけにはいかない。太平洋戦争について書かれた戦記や戦史類の多くは、沖縄戦についてはわずか数行で片づけている。したがって沖縄戦の過程で住民が被った甚大な犠牲について言及しているのも、けっして多くはない。その点、沖縄住民にとっては、自らの郷土が見る影もなく破壊し尽され、数々の文化財も余すところなく潰滅させられた。そのうえ当時の人口の三分の一に相当する十数万人を犠牲に供したにもかかわらず、戦後のその”見返り”が一体何であったかを問わずにはいられない。
「捨て石作戦」の見返りは、あまりにも皮肉なものであった。すなわち、戦争で傷つき果てた沖縄に置かれたのは外国の軍事基地であった。これでは沖縄の人たちが戦争の傷痕をいやしうるはずはなかろう。家永三郎教授によれば、米内光政海相は戦後処理の問題と関連して、つとに一九四五年五月十七日の時点で、「皇室の擁護が出来さえすれば良い、領土は本土だけになっても我慢しなければならぬのではないか」と語ったという。
沖縄戦で十数万におよぶ住民を犠牲に供したあげく、戦後はとかげの尻尾なみに沖縄は切り捨てようというわけである。おそらくこうした人びとは、もし本土決戦が現実に行なわれていたら、一体いかなる事態が生じたかについて全く想像することさえできないにちがいない。要するに「沖縄の痛み」など、いささかも感得しえない、としか言うよりないのである。前引の高木惣吉氏は、「本土決戦」との関連で、こう語っている。
「鹿を追う者は山を見ずというが、マリアナ、比島の守りを失い、沖縄の運命既に定まった後に祖国をあげて焦土と化し、老幼婦女子を屠殺の生費とするも辞せない作戦計画は、民族的英雄主義におぼれ、大局の判断を誤ったものというべきであって、その生存と繁栄のためにこそ戦を賭した祖国と国民を滅ぼそうとする、これ等の計画で果して何を防衛しようと考えたのか、戦争指導首脳部の心境は大戦中の不思議の尤なるものである」
たしかに日本軍部の発想は、不可解というよりなかった。したがって沖縄戦の渦中に巻きこまれた住民は、一体、何を得、何を失ったのかについては、われわれは何度でも問い直さねばなるまい。と同時に、戦争とは何か、国を守るとは誰から誰を守ることなのか、という点についても真剣に検証してみる必要があろう。

同書P245-246より。
大日本帝国という国の基本姿勢が「皇室の擁護が出来さえすれば良い、領土は本土だけになっても我慢しなければならぬのではないか」という言葉に凝縮されていると思います。国体の護持が最優先。国民の生命と財産は二の次。沖縄は半植民地であり本土には含まれない。大戦末期の日本軍の行動には、そういう価値観が如実に表れているのではないでしょうか。