情報弱者な「普通の人々」

「普通の人々」は情報弱者です。
「普通の人々」は、朝日新聞とか日教組とかに自虐史観に洗脳されていましたが小林よしのりの漫画とかネットの情報とかのおかげでその洗脳から目覚めました、というような自分語りが大層好きですが、それが「普通の人々」が情報弱者な証。
「普通の人々」は何らかの理由により幼少の頃より情報源が著しく制限されていたので、多数の情報源からの情報を比較検討する機会がなかったのです。ゆえに朝日新聞とか日教組とかに易々と洗脳されてしまい、次には小林よしのりの漫画とかネットの情報とかを鵜呑みにしてしまうのです。それまでの生涯で小林よしのりの漫画やネットの情報を鵜呑みにする程度の知識しか身につけられなかったということが「普通の人々」の情報弱者ぶりを示しています。
「普通の人々」が真実に目覚めた先知先覚者という幻想を持ってしまうのも仕方がないことです。「普通の人々」にとって、小林よしのりやネットから得られた情報は「他の人に先駆けて知った真実」なのですから。情報弱者な「普通の人々」には、それらが使い古されたデマゴギーであることは知りようもないことです。
「普通の人々」が複数の情報源からの情報を比較検討していることを得意げに語っていても暖かい目で見てあげましょう。「普通の人々」にとってそれは特別で凄くて素晴らしいことなのですから。幼少の頃より複数の情報源からの情報を比較検討できる環境なんていうのは「普通の人々」にしてみれば普通のことではないのです。


レイシズムに基づいたヘイトスピーチ歴史修正主義に基づいた史実の否定といった極右発言を行なったとしても「普通の人々」は中道です。そういう発言をするとウヨク呼ばわりされるのは社会を陰から操るサヨク(それなのに何故か政権を取れない)の陰謀です。
「普通の人々」にとっては反レイシズムや反歴史修正主義の方がサヨクの所業なのです。
レイシストとか歴史修正主義者とかいうのはサヨクが「普通の人々」に貼る悪しきレッテルです。だって、そんなこと突然言われたら不愉快じゃないですか。「普通の人々」の「正義」の言葉に対してレイシストとか歴史修正主義者とかいうのは「普通の人々」にとって上から目線の唐突な罵倒なのです。情報弱者な「普通な人々」はレイシズム歴史修正主義に関する知識を得る機会が無かったので、レイシズム歴史修正主義に感染しても仕方がないのです。
一方、朝日新聞とか日教組とかに自虐史観で洗脳された覚えもなく小林よしのりの漫画とかネットの情報とかでその洗脳から目覚めることもない人が、「普通の人々」から「未だに自虐史観を鵜呑みにしている連中」と見下されることは「正義」なので、そういう「愚かな人々」のサイトが炎上しても仕方がありません。だって「正義」ですから。
「普通の人々」はレイシストとか歴史修正主義者とか呼ばれると「現代の魔女狩りだ」とか「思想弾圧だ」とか被害者ぶることがあります。
一方「普通の人々」の「普通でない人々」に対する異端審問かはたまた魔女裁判かといった迫害は「正義」ですから問題ありません。


「普通の人々」は中道を自称していますから、あくまで「公平中立」を目指します。右と左の両方の意見を聞き、その上で「中立」の立場から「公平」に判断して結論します。その判断に論理的根拠は必要ありません。主観だけで十分です。
「公平中立」さにおいては、基本的人権や歴史的事実といった基準において間違っているか否かは問題ではありません。主観において自分が「公平中立」か否か、あるいは「公平中立」を装えるか否かが問題です。
レイシズム歴史修正主義といった「普通の人々」の主張は「公平中立」な判断の結果です。
「普通の人々」にとってはレイシズム歴史修正主義といったの主張の方が「公平中立」に見て「正しい」のであり、それを非難する方が「正しくない」のです。そういう非難をするのは「普通ではない人々」です。
レイシズム歴史修正主義といった主張が世界に受け入れられないのは世界の方が「正しくない」からです。それは「情報戦」に敗北した結果であり、世界の方が間違っているのです。「普通の人々」は卑劣な「情報戦」を行なう「巨悪」と日夜戦い続けているのです。「普通の人々」のそういう主張を非難する「普通ではない人々」は「巨悪」の「情報戦」に引っかかるような愚か者か、率先して「情報戦」に加担する「巨悪」の手先なのです。
「普通の人々」を非難する「普通ではない人々」は大抵サヨクです。保守であろうと右翼であろうとサヨクです。「普通の人々」にとって右翼は「国体を纏った左翼」。ゆえに右翼であろうとサヨクなのです。


「普通の人々」は右と左のトンデモ、右と左のキチガイ、右と左の全体主義といった言葉をよく使います。あたかも、そのようにして右と左の両方を非難していれば中道たる自分はそれらの要素から逃れられるとでも思っているかのようです。トンデモにしろキチガイにしろ全体主義にしろ、陥るのに右も左も関係ないでしょうに。*1まあ、中道を自称するだけで左右両方を見下せるというのは優越感を得る方法としてはお手軽ですね。


「普通の人々」は現実主義者を自称します。「真実」に目覚めた「普通の人々」が「現実」に即した対応をすることは当然のことです。
「普通の人々」が嫌朝日、嫌日教組、嫌左翼、嫌韓、嫌中といった感情に振り回されて情報に対して自動的反応をしているだけのように見えるのは「現実」が見えていない「普通ではない人々」の気のせいです。


「普通の人々」は非常に高い「リテラシー」を持っています。
ここでいう「リテラシー」は信じたい情報を信じるために理屈を捏ねる能力と信じたくない情報を信じないために理屈を捏ねる能力を指します。「情報戦」、「国益」、「自作自演」などの言葉を組み合わせるとそれらしい理屈を捏ねることができるようです。
そのようにして雑多な情報の中から「正しい情報」を選別できるのは「普通の人々」ならではのことです。


「普通の人々」は「右からも左からも責められてつらい立場です」と嘆息してみせるのが大好きです。
「普通の人々」が責められるのは「普通の人々」が「正しくない」からではありません。中道を自称する「普通の人々」の方が「正しい」のであり、それが責める「普通ではない人々」の方が「正しくない」のです。
責められるのは歪んでいて未だ真実に目覚めえぬ「普通ではない人々」の愚かさゆえと認識することで「普通の人々」は自己憐憫と優越感を同時に満たすことができます。


そういう「普通の人々」も自分が鵜呑みにして受け売りしていたことが使い古されたデマゴギーに過ぎないことを気づかされることがあります。でも、大丈夫。確かにそれらの情報は誤りだったかもしれませんが、「普通の人々」が「目覚めた」という結果は正しいのです。それらのデマゴギーは「普通の人々」が「目覚めるきっかけ」として「正しい」役割を果たしたのです。
まあ、考えてもみてください。使い古されたデマゴギーに騙されたという事実を認めることにどういうメリットがあるというのでしょうか。
そんなことをしたら、自らが使い古されたデマゴギーに騙されるような愚か者であったことを認めねばならず、「普通ではない人々」を迫害したことに対する自責の念に苦しまねばならず、優越感の根拠となっていた先知先覚者幻想を捨てねばなりません。
これほどのデメリットがあるわけですから事実を認める勇気を持てなかったとしても誰が責められるでしょうか。そんな勇気を持つ人なんて、そうはいませんよ。それを認めるくらいなら、自分で自分に嘘をつく方が遥かにましというもの。
大体、デマゴギーに騙されたといっても「普通の人々」はそれで何かを失ったわけではないのです。むしろ、先知先覚者幻想により優越感を与えられたのです。与えられたものを何故手放す必要があるのですか。
こうして「普通の人々」は自らを先知先覚者として、未だ目覚めえぬ「普通ではない人々」を見下し優越感に浸ることをやめないのでした。
ああ、人間って素晴らしい。世界は素晴らしい。
万歳。万歳。万歳。
人間大好き。

*1:全体主義に見られる警察国家、相互密告社会、共同体に対する自己犠牲を強いる空気といった要素は政府が国民をそのようにして管理することを望んだ際に構築されるもので、左右関係ないというものでしょう。