技術自体は中立で使う人次第。しかし、

以前、本サイトの方にこういう記事を書きました。
思考法-演繹法と帰納法
自分ではあまり良い記事とは思っていないのですが、結構あちこちで紹介されました。
整理不足で、文字数を抑えるために書いたほうが良いと思ったことも書かなかった*1記事ですが、中立的で淡々とした記述に徹したのが良かったのだと思います。
そういう記事ですが、以下のような形で引かれているのを見ると苦笑してしまいます。他者に対して懐疑的でありながら自らを疑うことは知らないのではないかというような発言内容に。
ゆいネットワーク : 戦争責任者は靖国へはいけない 昭和天皇の不快発言に思う
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=flat&topic_id=536&forum=1
そして、思うのです。「引用されること自体は構わないのですが、貴方はそういう論理を自分自身に適用していますか」と。
ああ、もう、こういう人に「自分自身に対する懐疑」を伝えることができなかった私の記事の力不足に絶望。


なんというか、「我こそは論理的で現実的な先知先覚者で、そんじょそこらのお花畑とはわけが違う」というような人には、どうも自らに対する懐疑が欠けているような気がします。
真に論理的で現実的であるためには、自らに対しても懐疑的であることが必要というものでしょうに。

*1:帰納と演繹が論理的に相互変換できるという話(帰納は不完全な演繹)とか。