素朴な正義感という言葉で揶揄されているもの

2007年06月26日 D_Amon 社会, ネット, コメント欄 コメント欄の素朴な正義感で動いている人の姿。

はてなブックマーク - Apes! Not Monkeys! - リンチと化す“祭り”

例の「当て逃げ」被害騒動でコメント欄に大量書き込みしている人に対して「素朴な正義感」という言葉が私を含め複数の人々に使われました。
そして、私はこの「素朴な正義感」という言葉に対する反応をいくつか読みました。
もっともと思う意見もありましたし的外れと思う意見もありました。
「彼らを動かしているのは『素朴な正義感』などではない」というのは、私もそう思わないでもありません。
人が正義を求める理由は様々。私的な鬱憤晴らしのための口実として正義を欲する人も世の中にはいます。
その正義は「躾(しつけ)」という名の幼児虐待だったり、「犯罪者に対する正当な制裁」という法を無視した集団リンチだったり、「悪者退治」というヘイトクライムだったりすることもあります。
他人を傷つけ、他人を貶め、そうすることによって憂さを晴らす心根の卑しさを覆い隠すための正義。
そういう正義の臭いを私も感じないわけではありません。しかし、それはコメントのいくつかからの憶測に過ぎません。
「素朴な正義感」はそういう憶測を抜きにして表面化しているものを表現した言葉です。
他の人がどういう意味でこの「素朴な正義感」という言葉を使ったかは分かりませんが、少なくとも私はこの言葉を揶揄目的で使っています。
何を揶揄しているかといえば、感情に支配されていること。感情のままに暴徒化していること。
感情に支配される人間の何が駄目かといえば、簡単に扇動されてしまうこと。そういう人は感情に働きかける言葉で容易に操作されてしまいますから。
私は人に扇動されやすさを克服することを求めているわけで、その手段の一つとして自らの感情が動く構造を知り自らの感情を制御することを挙げていたりします。そういう観点からすれば、感情に支配されるというのは、扇動されやすさの克服とは対極。
私は人に自らの感情を理性で制御することを求めており、そこから感情に支配されていることを揶揄するというわけです。
そういうわけですので「素朴な正義感で動いている人」を「思いを汲み取れ論」で擁護しているのを見ると的外れと思うのです。
まあ、確かに人は感情に支配される方が自然といえば自然。
感情に支配される方が自然だからこそ、相手を操作するために感情に訴えかける言葉を使う人もいるわけですし。
それでも私は人間という生物を信用します。いつの日かそういうことを概ね克服できる日も来るであろうと。
歴史を見る限り、人間は後戻りをすることもあるもののトータルでは良い方向に進んでいける生物ですから。