知らないからこそ気楽なことが言える

youichirou 「いくら何でも30万はないだろ。ウン千程度が関の山じゃね?」という疑問を持ったら「南京事件は無かっただなんていうとは歴史修正主義者め!」って非難される例とか。

はてなブックマーク - 「なにが歴史修正主義の問題なのか」についての私見 - Close To The Wall

id:youichirouさん、まず「ウン千程度が関の山じゃね?」というのを蓋然性のある主張にしてみてくださいませんか。
ウン千程度というのは知識の有る人から見れば過度な事件の矮小化にあたるわけで、歴史修正主義者と非難されても仕方がないのではと思います。
「いくら何でも30万はないだろ」というのはOKです。30万人説の蓋然性は低いですから。
ただ、30万人説の蓋然性は低いですが無いわけではありません。
戦史上の南京事件 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで引用した文に記載されているように、その数は資料の累積に基づいており、その資料の信頼性に応じた蓋然性はあるわけです。
それに真っ向から対抗するためには、それ以上に蓋然性の高い説を出してそれを受け入れさせる必要があります。
そして、それ以上に蓋然性の高い説を出そうというのであれば「ウン千程度」は無理です。「ウン千程度」の蓋然性は皆無と言っていいでしょう。
未公開資料に頼るまでもなく、1980年代に公開されていた日本語資料だけでも秦説のように万単位の虐殺は否定できないからです。*1
そういう事情ですから「ウン千程度」というのが事件の過度な矮小化と受け取られるのは仕方ないですし、事実上の事件の否定と受け取られるのも仕方ないでしょう。
で、そういうような否定しているように見える、あるいは矮小化しているように見える言動が海外に知られた結果が、そのカウンターとしての日本軍が行った過去の残虐行為の掘り返しなわけです。
そういう現象に対する私の個人的感情を述べれば「アホが傷を広げやがって」です。
私にしてみれば、そういう南京事件の否定や過度の矮小化は知らないからこそ言える無責任な発言なんですね。
私はそういう無責任な発言をしてほしくないのです。やるなら、きちんと蓋然性のある主張を、できれば南京事件について国際的に知られている東京裁判認定の20万人説以上に蓋然性のある主張をしてほしいのです。それが出来ないのであれば専門家に任せておいてほしいのです。
ですから、問題を悪くするだけの無責任な発言を批判するのは当然のことなんです。

追記(2008/01/07)

2008-01-06 - デジタルのあるくらし
youichirouさん、真摯な対応ありがとうございます。
「書いた数字そのものには余り意味はありません」とのことですが、その上で敢えて述べれば「ウン千程度が関の山じゃね?」ではなく秦説を主張していれば「歴史修正主義者め!」と非難されることはないのではと思います。
「ウン千程度が関の山じゃね?」というのは、いかにも「数千人程度が最上限」というのを高い蓋然性があるかのように主張しているように見えます。

*1:その上、敗戦時の資料焼却が「これだけのことしかしていない」を日本側資料で蓋然性の高い主張にすることを不可能にしています。