価値否定論法

価値否定論法は対象の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法。
主に対象の「正しさ」を否定できなくてもそれを認めたくないときに使われます。
認知的不協和という人間の心理構造により非常に強い効果を持ちうる論法です。
認知的不協和とは相容れない複数の認知を抱えたときに生じる心理的緊張状態(例えば不快感)のこと。
人間は認知的不協和を解消するために自分の認知の方を変更してしまいがちです。(認知的不協和理論)
例えばイソップ寓話の「狐と葡萄(ブドウ)」(酸っぱい葡萄)
食べたいブドウを手に入れられなかったキツネは「あのブドウは酸っぱい」と思うことにしました。
「あのブドウを食べたい」という認知(変更可能)と「あのブドウを手に入れることはできない」という認知(変更不可能もしくは変更困難)の不協和に対し、前者を「あのブドウは酸っぱい(から食べたいとは思わない)」と変更することで「あのブドウが手に入らなくても構わない」ようにし、後者の「あのブドウを手に入れることはできない」という認知との不協和を解消したわけです。
ちなみに、不協和を解消するためにタバコの害の科学的事実を否定しているのが猫猫先生。テストに出ますから覚えておくように。(出ません)
価値否定論法のやっかいさはこういう認知的不協和の解消を提供するゆえに認知的不協和を抱えた人の支持を得やすいところにあります。
基本的に人間は「正しさ」や「一貫性」に対する欲求を持っています。しかし、自らが「正しさ」を得ることが出来ないときや、相手に「正しさ」があり、その「正しさ」を否定できないときや、「正しさ」自体が自らの願望に沿わないとき、手に入らないブドウを酸っぱいと思いたがる有象無象の人間が、不協和を解消するために「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定する論法に飛びつくのです。
例えば愛国とか言うなら、まず否定論が他国の対日感情を悪化させる上に他国に政治カードを与えてしまうという現実を認識すべき - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで引用した「まあ、肯定派が愛国左翼だったら、「〜は否定できないから、(中国のプロパガンダに対して)日本はこういう戦略で対抗すべきだ」のように建設的な意見を言うと思うけどね」という言葉。
これは、主観的な「愛国的行動ではない」という判断のもとに(南京事件)肯定派(史実派)の主張の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定しているわけです。
あるいは、そういうのを論点ずらしという - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで引用した「正しいことを言っているのに、なんで信者は増えても広がりがないのか、について、反・歴史修正主義者の人たちは考え直してみるといいと思います」という言葉。
これは、「支持の広がりの否定」をもとに反・歴史修正主義者の「正しさ」自体ではなく「正しさ」の価値を否定しているわけです。まあ、これはid:lovelovedog氏自身が抱えた不協和を解消するための発言の色が濃すぎて不発でした(ように見えました)けど。
不協和をありのままに受け入れられないという弱点を抱えた人間にとって不協和を解消してくれる価値否定論法はありがたいものですから、場合によって非常に強い効果を持つのは仕方がありません。
その一方で「手に入らないブドウを酸っぱいと思いたがる狐」の駄目っぷりも明白なわけで、そういう人が多数派を占めるようでは国が駄目なほうに流れていくのも仕方がないというもの。
とりあえず、政治家の駄目さは国民の駄目さの反映ということでファイナルアンサー。