(現時点では)「支持」を得られないのは仕方がない

歴史修正主義が「支持」を得られないとしても、それは仕方がありません。
歴史修正主義が不都合だったり不名誉だったりする不快な歴史を否定や捏造により作り変えて快い「大いなる物語」に改変するのに対し、反歴史修正主義は不都合だったり不名誉だったりする不快な歴史をありのままに受け入れることを要求しているのですから。
それは理性より感情が先に立つ人には不快ゆえに「支持」されなくても仕方がありません。


人々に理性に基づいた行動を求める人が、人々の願望を汲み取って行動すれば得られた「支持」を得られなかったことを非難されるのも仕方がありません。
人々に理性に基づいた行動を求める人にそういうことはできませんから。
何故ならば、人々に理性に基づいた行動を求める人にとって、人々の願望を汲み取って行動することにより得た「支持」は無価値だからです。
人々の願望を汲み取って「支持」を得るのはポピュリズム。人々に理性に基づいた行動を求める人にとってはポピュリズムでポピュラーになっても仕方がないのです。
そもそも、人々に理性に基づいた行動を求める人にとっては願望自体が否定対象。カメラマン転倒。いや、本末転倒。*1
応答が「勝手な願望を持つな。自ら為すべきことを為せ」というようなものになるのは至極当然。
願望を汲んだことによる「支持」も「支持」ですが、理性に対する「支持」を求める人には無価値な「支持」です。
「支持」を得るために人々の願望を汲み取って行動しろなんて論は、理性に対する「支持」を求めている人にとって「たわけ(nuts)」以外の何ものでもありません。
人々に理性に基づいた行動を求める人に対して、人々の願望を汲み取らないことを非難しても仕方がないのです。
そういうのは理性を説く人にとっては「政治」としては正しくても「運動」としては正しくないのです。


そう、まだまだ「支持」を得られないのは仕方がありません。
そんなことは理性を説く人にも分かっています。人間のどうしようもない心理構造についてそれなりに知っているだけに。
それでも不快に思われるのを覚悟の上で理性を説くのです。
そうやって思想に関わらず理性に基づいた行動をする人を少しずつでも増やしていけば、長期的には理性の方が優勢になると考えるくらいには人間のことを信じているからです。それは長期的な人類の進歩に根ざした確かな期待です。

*1:ホビージャパンカメラマン本末氏ネタ。非常に寒い