南京大虐殺と選択的無知

南京大虐殺の百科事典における記述

南京大虐殺の百科事典での記述は、その一例を下記のリンクから読むことができます。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA/
この記事では南京事件という言葉も用いますが、この言葉は南京大虐殺を含む南京戦での日本軍の戦争犯罪の総称であり、なんら南京大虐殺を否定したり矮小化したりする意味合いを持つ言葉ではありません。

諸説について

否定説(南京事件はなかったという説)はありえない

南京事件については諸説はあるものの学問的には数万から数十万の規模の虐殺を含む戦争犯罪があったことで決着がついています。
それらは数々の史料に裏づけられており、戦闘詳報のような日本側の記録だけでも相当規模の虐殺があったことは否定できません。南京事件は日本側、中国側、当時滞在していた外国人側というように加害側、被害側、第三者による歴史学的証拠のある歴史的事実です。史実のどれほどにそういう歴史学的証拠があるかを考えれば、まず疑いようのない史実というものです。
しかし、世の中にはその歴史的事実を否定するような人々がいて、南京事件に関する諸説において、そういう人々のことを否定派、そういう人々の主張を否定説もしくは否定論と呼びます。
このような否定論は、欧米においてホロコースト否定論者が歴史修正主義を自称したことから、歴史修正主義とも呼ばれます。
そして、そのような否定説に対して歴史的事実に基づいて反論している人々や、歴史的事実に基づいた説を取る人々を史実派と呼びます。
端的にいって否定説はガセであり、史実派はガセに対する指摘をしているわけです。

線引き問題

南京事件の諸説における虐殺犠牲者の人数は単純な死者数ではありません。
それは虐殺の被害と認定された数であり、当然のことながら、総死者数より少ない数となります。
虐殺の被害と認定された数であることから明らかなように、諸説における犠牲者数はどのような死を虐殺の被害者に含めるのかという(法と倫理における)価値判断を含みます。
また、南京事件に含める地域的範囲や時間的範囲をどう取るかによっても南京事件の被害として認定される犠牲者数は変わります。*1
つまり、同じような史料に依拠し、背景事情に関する考察が共通していても、何をもって南京事件での虐殺に含めるかという線引きの差により虐殺と認定される数は変わりうるわけです。諸説において犠牲者数が分かれる理由の一つですね。

諸説は必ずしも排他的な関係ではない

諸説は必ずしも排他的な関係ではありません。
諸説には依拠する史料や考察に共通する部分がある場合があり、そのような場合、相互の共通部分の研究が進むことは相互の事実判断に影響します。諸説はそのように相互補完の関係でもありうるわけです。
つまり、ある説を主張することは必ずしも別の説を否定することになるわけではないということです。

「懐疑派」の問題行動

南京事件における「懐疑派」の言動を問題にするにあたって、まず、懐疑そのものには問題がないということは言っておきます。問題はその使い方。
対象についてより知ることが目的となっているような懐疑なら問題ないですが、分からないと言い続けることが目的となっていたり、疑わしいという印象を持ち続けることが目的となっていたりするような懐疑なら問題ありです。
例えば、「日本軍最強伝説」*2を受け売りして史実派を疑うなんてのは、問題のある懐疑の一例というものでしょう。「日本軍最強伝説」のようなペテンにより史実への懐疑を植えつけられてしまうこと自体が懐疑精神を欠いていることの証というものです。そういう史実への「懐疑精神を欠いているが故の懐疑」を見ると、史実を知ることが目的なのではなく史実を疑うのに都合がいいから「日本軍最強伝説」みたいなものを真に受けているのではなんて思います。


実際問題、知らないがゆえに否定派だったり懐疑派だったりする人でも知ろうとする姿勢がある人はそういうのを「卒業」していくものです。
その一方で知ろうとしないで、いつまでも懐疑派に留まり続ける人もいるわけです。
そういう「懐疑派」は物言いも、結構、共通していたりします。そのいくつかを以下に挙げます。

「あったか無かったか分からない」と言い続ける「懐疑派」

「懐疑派」の中にはことある度に「あったか無かったか分からない」と言い続けるような人がいます。
南京事件は数々の史料に裏づけられた歴史的事実であり、南京事件について学問的知識を得れば否定派どころか「あったか無かったか分からない」というような懐疑派でいることもできません。南京事件について「あったか無かったか分からない」なんて言ってしまうのは基本的知識程度の知識すら身につけていないことの表明でしかありません。
つまり、知ろうとする姿勢がある人が「あったか無かったか分からない」と言い続けることはありえないということです。
にもかかわらず、南京事件が話題になるたびに「あったか無かったか分からない」と言い続けるような人は、自らの行動で自らの懐疑が「知ることを目的としたもの」ではないということを示してしまっているわけです。
そういう人は、「肯定派の主張と否定派の主張のどちらが正しいか分からない」(否定派の足止めにまんまとひっかかってしまっている)とか、「中国の記録を信用できないので、あったか無かったか分からない」(日本側の記録だけでも疑いようのない歴史的事実なのに!)とか、言う理由も共通していることが多いのですが、ここでは省きます。
その言動は、あたかも「あったか無かったか分からない」と言い続けることで、その言葉を見る人々をも不可知論に足止めしようとしているかのよう。


他国の戦争犯罪に関する情報はあっさり信じるのに、自国の戦争犯罪に関する情報には懐疑的になるというのは、人間の反応としてはありふれたものと思いますが、そういう反応は現実的でも論理的でもないというものと私は思います。

諸説があること自体を問題視し続ける「懐疑派」

「懐疑派」の中には諸説があること自体を問題視し続けるような人もいます。
「諸説が入り乱れているのは混乱の証。混乱は信用ならないことの証」というように、諸説があることをもって偏見の根拠としてしまうわけです。
これに関しても、知ろうとする姿勢があり、実際に諸説の内容について知れば、諸説があること自体を問題視し続けるようなことはないというものでしょう。
算出方法の違いや線引き問題を考えれば、諸説において犠牲者数が分かれるのは当然というものですから。
例えば、「現存する信頼できる史料から確認できる確実な値だけを重複を排除して積み上げた値」の説と「史料に数値が出てこない部分も推測で補った全犠牲者数の推計値」の説では値が異なるのが当然というものです。
前者は「犠牲者数は最低でもこのくらいという全犠牲者数の一部の値」であり、新たな史料が掘り起こされることで増加する可能性がある値。
後者は全犠牲者数の推計においての推測の妥当性が問われ続け、新たな史料が掘り起こされることで推計の精度を引き上げることが可能となるかもしれない値。
両者は単位は同じでも数としての性質はまったく異なるものです。


これは、実際に諸説の内容について知っていれば、数としての性質が同じ場合を除き、ある説の犠牲者数を主張することが即座に別の説の犠牲者数を否定してしまうかのようなことを主張することもしないであろうことも意味します。
諸説の数としての性質の違いを考えれば、諸説での犠牲者数が単純比較できないものであることは当然ですから。
逆にいえば、諸説があること自体を問題視してしまうような人や、数としての性質が異なる説を単純比較してしまうような人は、自らの知識がその程度のものでしかないことを自らの言動で明らかにしてしまっているわけです。


加えて、選択的懐疑の問題もあります。
邪馬台国の場所についてや、織田信長の死についてや、明智光秀の死についてなど、諸説分かれる事例は数多ありますが、それらに対しては諸説があることやその証拠を問題視したりしないのに、こと南京事件に限ってはそれら自体を問題視してしまうような言動。
そういう言動はそれ自体で「選択的に疑いをかけていること」の証明であり、そういう言動を行ってしまう動機や心理の方に「疑わしい」部分があるというものでしょう。

30万人説を殊更に疑い続ける「懐疑派」

「懐疑派」の中には中国側の象徴的数値である30万人説に殊更に疑いを向け続けるような人もいます。
具体的根拠も持たないのに30万人説への疑いを主張する人々。根拠はあっても持ち出すものが否定派と同様の破綻が明らかなものな人々。そこで話されてもいないし聞かれもしていないのに30万人説への疑いを語りだす人々。30万という数に対し「白髪三千丈の国だから」と誇張をにおわせ、つまるところ「中国人は嘘つき」と差別意識を垂れ流しているのも同然のことを言う人々。
これについても30万人説の諸説の中での位置づけを知っていれば、そのような振る舞いをすることはないと思うんですよね。

知らないからこそ気楽なことが言える - 模型とかキャラ弁とか歴史とかでも書きましたが、30万人説の蓋然性は低いですが無いわけではありません。その数は資料の累積に基づいており、その資料の信頼性に応じた蓋然性はあります。それに真っ向から対抗するためには、それ以上に蓋然性の高い説を出してそれを受け入れさせる必要があります。

史実派と否定派をどっちもどっちと言うのは只の知的怠惰の表明 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

というように以前に書いたわけですが、30万人説には30万人説なりの蓋然性があり、簡単には否定できません。
それに対して、具体的根拠もなしに否定したり、殊更に疑い続けるようなことをすれば、それは30万人説は嘘と主張しているのも同じ行為なわけで、非難されるのも当然な行動というものでしょう。過去の報道に事例があるように、政治家が行えば外交問題にもなりうるものです。
これは「30万人説を否定するな」ということではありません。具体的根拠を挙げて学術的手順を踏まえて30万人説を否定できるというのなら、是非やってみせてもらえればと思います。
30万人説を本当に否定したいのであれば、それは日中あるいは多国間で議論を重ねて線引きを確定し、その線引きでより精度の高い推計値を出すことというものでしょう。史実派の学者がそういうことをやっているので、30万人説を否定したい人は自らもそういう場に立つ努力をしてみればいいのではないでしょうか。


あと、これにも選択的懐疑の問題がありますね。
ベトナムでは日本軍の軍政のせいで一説では200万人もの人々が餓死したとされているわけですが、それに対して殊更「懐疑」を向けている人を私は見たことがありません。*3
200万人というのは推測による象徴的な数であり、確実な値ではないのですが、それに対して200万という数を殊更に疑い「実数は「未確定」というのが正確」なんて言うような人を私は見たことがありません。
何故、そのような人を見たことがないのか。
その理由の一つとしては、それが日本では南京事件ほど関心を持たれていないからということが挙げられるでしょう。人間は本当に無関心なことに対しては言及もしないものです。*4
しかし、それだけではないと私は思います。
日本においてそれが話題になった際、その象徴的数値が概ね素直に受け入れられ、殊更に疑われ続けることがないことを考えれば。
世の中には数々の象徴的数値があるわけですが、象徴的数値が概ね素直に受け入れられ、殊更に疑われ続けることがない事例(少なくとも日本ではあまり目につかない事例)はこれに限りません。(歴史上の数々の虐殺事件とか大災害とかについて考えれば明らかというものと思います。)
そして、それは南京事件のような場合に限って象徴的数値に疑いを向け続けるような人の姿が目につくことの特異性を示しているわけです。

「懐疑」に足止めできれば勝ちな歴史修正主義 : 認めたくないことを認めないための手段としての「懐疑」

で、こういうこと*5を指摘すると「疑うだけの理由があるからだ」と噴き上がる人がいたりするんですが、その「理由」が「日本軍最強伝説」とかの否定説の影響を受けたものだったりするわけです。
そういうように否定説の影響で選択的懐疑を植えつけられている時点で歴史修正主義の策略にひっかかってしまっているわけですが、それに気づいていないのですね。
歴史修正主義を掲げる史実派をサヨク呼ばわりして「ウヨクもサヨクもどっちもどっち」「両方ともいなくなれ」「両方ともキチガイ」なんて言っている人をネットではよく見かけますが、そういうことを言ってしまっている時点で既に(「なかった派」を否定することが「中立」の「担保」になると思われがちなことを含め)歴史修正主義の術中。歴史学と似非歴史学の間で中立を気取るという間抜けな姿をさらしてしまっているわけです。*6
なんというか、こういうようなガセとガセに対する指摘に対してウヨクとサヨクの対立という構図を幻視しメタ視点から見下しているつもりになるなんてことは極めて非論理的な態度だと私は思います。
この手の人々を見ていると思うんですよね。
この手の人々が南京事件について言及するにも関わらず、書籍などを調べて知ろうとはせず、むしろそうしない理由探しをしたりすることもあるのは「ウヨクの主張は過少であるが、サヨクの主張も過大である」という「信仰」を維持するためなのではないのか。
あるいは、その結果が自尊心を脅威にさらし心理的に受け入れられないだろうことを予見しているからではないのか。
大日本帝国の国家犯罪という変えられない歴史的事実に対する不快感情。大日本帝国の国家犯罪に対する道義的責任の追及に対する不快感情。歴史を見るときにそういう不快感情に負けてしまい、快・不快の感情を切り離して事実性のみを追求するということができないのではないのか。
というように。
この手の人々が本当に論理的なら、南京事件に至った旧日本軍と大日本帝国の構造的問題を淡々と分析して失敗事例研究の題材の一つとしてしまうぐらいのことをやってみせればいいのに。
で、この手の人々に対して、歴史修正主義の手口を含めて説明しても、大抵の場合、無意味です。
その理由は分からないでもありません。
説明を受け入れることは自らが歴史修正主義の手口にひっかかってしまったことを認めることであり、それを認めることは大抵のそういう人にとって恥ずかしいことでしょうから、自己認識での自分を恥から守るためには断じて認めるわけにはいかないのでしょう。
そういう心理的な自己防衛反応は極めて感情的な反応なわけですが、自己認識では現実的で合理的であろう人々がそういう自己欺瞞を無自覚にやると。
こういう「どっちもどっち」派を作り出す歴史修正主義の策略は、他者を見下したいという欲望とか自国の負の歴史を認めることに対する不快感情とかを入口として人々を取り込み、出口は自らがそういう策略にひっかかってしまった間抜けであることを認めることからの逃避により塞がれていると。そういうように私は推測します。
なんというか、歴史修正主義はこのように人間の心理的脆弱性を味方につけている点でもやっかいという話。

「態度が悪い」とか「相手にしない方がいい」とか

歴史修正主義歴史修正主義という似非歴史学に対するカウンターなわけですが、そうして歴史修正主義に対して反論していると第三者からアドバイスをもらうことがあります。
曰く、「態度が悪い(説得する態度ではない)」とか「歴史修正主義者なんて相手にしない方がいい」とか。


まず、「相手にしない方がいい」については日本の現状においては論外だと思います。日本は政治家が歴史修正主義な発言を繰り返ししてしまうような国であり、そういう発言に対する罰則もないような状態なわけです。「相手にしない」ということは歴史修正主義の言いっ放しを許すことであり、その実社会への影響を放置することでしかありません。
日本の現状ではそういう発言に対してはモアスピーチで対抗するしかありません。(もっと、いい方法があるのでしたら実践してみせてください。)
また、ネットで検索できるように対抗情報を発信していれば、ネットで調べて「真実」(と思い込んでしまっているだけの捏造情報)に目覚めてしまうような人が歴史修正主義に染まるのを、ほんの一部かもしれませんが、防ぐことができるかもしれないわけです。
こういう対抗情報の発信は、実社会への影響を考えれば誰かがやるべきことだと私は思います。


「態度が悪い」については傍目にはそう見えるのでしょうが、構造的に避け難いことだと思います。
南京事件否定派などの歴史修正主義者は「日本軍最強伝説」のようなペテンに引っかかって「あいつらはこういう愚かなことを主張している連中」扱いし、初っ端から見下した態度で接しくるような人々なわけです。
そういう自己認識では「真実を知っている情報強者」な人々に対して歴史修正主義の誤りを指摘することは「お前らこそ愚かなことを受け売りしている」と自らの愚かさを認めさせることになることが構造的に避けられません。
歴史修正主義に対する誤りの指摘は、歴史修正主義に染まって(あるいは、影響を受けて)他者を見下しているような人々にとって、気持ちよく酔っているところをぶち壊しにされるようなことに他ならないわけです。
そのような状況で、そういう人々が自らの愚かさを認めるようになることを素直に受け入れられると思いますか?
そういう人々の殆どは淡々と誤りについて説明したところで受け入れたりはしません。
ならば、続く言葉のやり取りが相手のそういう態度に対する批判になることも構造的に避け難いことになるわけです。
それを「説得する態度ではない」だの「人格攻撃は良くない」だのと言われても、歴史修正主義者の拒否的反応は自己陶酔や虚栄心などを維持するために平気で(おそらく自分自身にも)嘘をついたり、理解した結果を受け入れられないがゆえに理解できないふりをしたりするなどの態度の問題であり人格の問題であるわけですから、人格自体を批判対象にすることは構造的に避け難いとしか言いようがありません。


まあ、アドバイスはアドバイスとして、この手のアドバイス自体に非対称の問題があると私は思います。
歴史修正主義の活動をしていると「歴史を絶対的真実と信じている思考停止した愚か者」扱いされたり*7、「歴史の真実を知り切っている神様(と思い込んでいるような愚か者)」扱いされたり*8することがあるわけです。
そういう先入観による偏見で一方的に愚か者扱いしてくるような相手に対して切り返さずに、相手が傷つかないように言葉を選んで噛んで含めるように優しく説得しないことが非難されるとすれば、その方が理不尽なのではないかと私は思います。
そういうアドバイスをしてくる人々には、態度云々に関しては歴史修正主義者に対しても言ってほしいと思わないでもないです。
なんというか、反歴史修正主義の側にだけそのように言われるのは、随分と非対称なことだと思うんですよね。
あと、アドバイスより「もっと上手くやってやる」と実際に行動してもらえるといいのにとも思わないでもないです。もちろん、これは皮肉ではなく本当にそう思っています。



というわけで、ここまでが前置き。
前置きにしては長過ぎと思いますが、これでもかなり削ってあります。
読みやすさを考えると、こういう前置きは省きたかったのですが、これを省いて、いきなり本題に入ると、この件に関する前提知識を持たない人々に誤読されるかもしれないと思いましたので書きました。
さて、ここからが、いよいよ本題。

松永英明氏の問題点

自らへの宿題としてから随分と時間が経ってしまいましたが、南京事件に対する松永氏の問題点について書きます。

「なかった説」(否定説)を選択肢から外さない

繰り返して言いますが、30万人説だろうとなかった説だろうと10万人説だろうと1万人説だろうと、今の私には積極的にこれを選ぶということがまだできません。
しかし、まだできない、ある説を今すぐ受け入れないのが、思索を放棄しているかのように言われるのであれば、それはまったく違うと言うしかないのです。
「否定」と「まだ受け入れていない」の違いを理解してください。

なかった説と30万人説は鏡像ではない - 誰かの妄想・はてなブログ版

松永氏はscopedog氏の記事のコメント欄にこう書きこんでいます。
このような発言は、この時点では無知ゆえに「なかった説」を否定できなかったのであれば、仕方がない面もあるとは思いますが、松永氏の場合、それはありえません。
松永氏はこの発言以前に、下記のようなブックマークコメントを書いているからです。

matsunaga 歴史, 歴史認識, 史観 私が保留するのはあったなかったではなく「人数」「規模」。30万人よりは少ないだろうと考えると、中国側から「否定派」「歴史修正」と言われ、右翼からはサヨク呼ばわりされる。実数は「未確定」というのが正確。 2009/06/03

はてなブックマーク - 南京事件「どっちもどっちなので保留」派は日本側史料を読むといいよ。 - クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)

南京事件「どっちもどっちなので保留」派は日本側史料を読むといいよ。 - クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)南京事件についての日本側史料を紹介した記事ですが、この記事にこういうブックマークコメントを書いた時点で「なかった説」がありえないことを松永氏は知っているわけです。
松永氏が誠実であるならば「なかった説」はこの時点での選択肢から外れるのが当然というものです。
「なかった説」を選択肢に残していることは「人数」「規模」だけではなく「あったなかった」をも保留していることになります。
このように「なかった説」を否定できる知識を既に持ち、虐殺の事実自体は認めながら「なかった説」と「30万人説」を同列に並べ、その中から選べないので留保する。こういう態度を知的に誠実とは言いません。
こういう「なかった説」がありえないことを知りながら「なかった説」を選択肢に残している姿勢が「思索を放棄している」ものであることはありえないでしょう。
それはあたかも「分かっていることを分からないかのように振る舞う自らの姿勢に対し、いかに他者から誠実に見えるように振る舞うか思索しまくっている」かのようです。

南京事件に関する基本的知識を欠いていることを示す発言

この松永氏のコメントには他にも問題があります。

そしてもう一点。30万から減らすことが日本の責任を軽減しようとしているかのような論調で言われることがありますが(特に数万程度の「中間派」は、中国語圏では幻想派と同一視されている)、私としてはたとえ仮に1万人だろうと、いや1000人だろうと、民間人がそれだけ死ねば「大虐殺」状況であろうとは思いますので(すべてが便衣兵説には与しない)、数字を減らしたいという希望があるわけではありません。

という部分の「民間人がそれだけ死ねば」という言葉から察するに、松永氏は「南京事件における犠牲者数に含まれるのは民間人だけ」と認識しているようです。
松永氏は他にも「私自身は、南京事件(というより、南京において、日本軍による民間人の殺戮行為)はあったと考えている。しかし、それは中国政府や台湾国民党の主張する「30万人」よりは少なかったのではないかと思う」と発言しているわけで*9南京事件の犠牲者数が民間人だけで構成されていると思い込んでいるであろうことは確実と思われます。*10
それも、南京事件における虐殺を、便衣兵処刑に巻き込まれた民間人の殺害と認識しているかのようです。
もしそうならば、それは松永氏が南京事件に関する基本的知識を欠いていることを示しています。
なぜならば、南京事件の犠牲者数は軍民合わせての数だからです。*11
南京戦において日本軍は投降した中国国民党兵捕虜を国際法無視で殺害しました。
敗走した中国国民党兵の中には(日本軍に対する降伏が死を意味することが知れ渡り、事実上、投降という選択肢が封じられていたこともあって)武器や軍服といった装備を捨てて南京の住人の中に逃げ込んだ者もいたわけですが、そうした敗残兵に対して行われた「便衣兵の抽出」という名の敗残兵狩りにおいて、日本軍は「便衣兵」容疑者の殺害という、事実上、軍民の区別なしの殺戮を行いました。
こうした捕虜の不法殺害や「便衣兵」容疑者の殺害については、日本軍の戦闘詳報にも「旅団命令により捕虜は全部殺すべし」という記述とともに捕虜の殺害人数が記載されていたり、従軍した兵士の陣中日記にも捕虜の不法殺害や「便衣兵」容疑者殺害に関する記述があったりで、日本側史料からも疑いようのない歴史的事実です。
他にも、食糧などの物資の現地調達において略奪に抵抗した民間人を殺害したり、性暴力後に被害を訴えられないよう口封じするために女性を殺害したりと、そうした多数の殺害事件の集合が南京大虐殺と呼ばれているわけです。
南京大虐殺の犠牲者は民間人に限りませんし、「すべてが便衣兵説には与しない」なんて発言してしまう時点で話になりません。基本的知識があれば、そういう説を引き合いに出す方がおかしいというものです。それは実際の事件の経緯を把握していないことの表明でしかありません。
南京大虐殺と呼ばれているものは便衣兵を処刑したものであって虐殺ではない」「中国軍が民間人に紛れて攻撃するという便衣兵戦術をとったことが民間人の巻き添え被害を生んだのだ。虐殺の責任は便衣兵戦術を用いた中国軍にある」とかいうのは日本版歴史修正主義の一種である自由主義史観やその影響を受けている小林よしのりなどに見られる主張であって、歴史学的には話にならない否定派の作り出した虚像に過ぎません。
こうした発言に見られる松永氏の問題点は基本的知識を欠いているというだけではありません。「基本的知識は欠いているのに、なんでそういう風に否定派の影響の方は受けているの?」ということになります。
色々と差し引いて見ても、松永氏の言動は基本的知識を持たない人が否定派の影響を受けた結果の先入観と偏見によりやりがちな間違いをやってしまっているようにしか見えません。
線引きの異なる数値を単純比較してしまうような振る舞いと合わせ、松永氏は少なくともこの時点では南京事件について具体的な話をするだけの知識を持っていなかったと私は判断します。
本題とは関係ないですが、松永氏の言動を見ると、怪しまれまいと思って聞かれてもいないことをペラペラと自分から喋ってしまうタイプの人であることは確実と思いますね。

実際には読んでいないであろう本からの引用

この見解は、私の考えと一致していると思います。もし、笠原氏のこの発言をも「シャドーボクシング」と批判されるのであれば、D_Amonさんの態度は一貫していると思いますが、私はこのような中国人の見解(南京事件に関する主流的公式見解として)は、決して存在しないものではなく、むしろ確固として存在すると確信しています。
なお、わたしは人数について、意見を保留します。笠原説の数字は一つの参考として見ています。

笠原十九司氏が「「30万人説」を否定しているという事で中国から批判されてますが(笑)」と論拠も示さずに主張するkikori2660氏と、裏も取らずにその主張を広めるのに協力する松永英明氏 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

松永氏は笠原氏の30万人説に対する否定的見解を「南京事件と日本人(柏書房)」から引用してからこのように発言していますが、松永氏は(少なくともこの時点では)この本を実際には読んでいないでしょう。
何故ならば、犠牲者数が軍民合わせての数なのは笠原説でも秦説でも変わらず、実際に笠原説なり秦説なりの内容を知っていれば「南京事件(というより、南京において、日本軍による民間人の殺戮行為)」というような発言をするわけがないからです。
引用部分の記載ページに関する発言から見て、松永氏は実際には読んでいない本をネットの検索結果から又引用したのではと私は推測します。
私は又引用自体を咎める気はありませんが、又引用を引用であるかのように虚飾することを誠実な態度とは思いません。

「30万人説」の根拠なき否定と受け取られて当然な発言

matsunaga 歴史, 歴史認識, 史観 私が保留するのはあったなかったではなく「人数」「規模」。30万人よりは少ないだろうと考えると、中国側から「否定派」「歴史修正」と言われ、右翼からはサヨク呼ばわりされる。実数は「未確定」というのが正確。 2009/06/03

はてなブックマーク - 南京事件「どっちもどっちなので保留」派は日本側史料を読むといいよ。 - クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)

という松永氏の発言には「30万人よりは少ないだろうと考えると」の部分にも問題があります。
諸説の関係を考えれば明らかですが、「こういう根拠(とこういう価値判断)からA説をとる」と主張するのと「こういう根拠からB説の人数は誤りであると考える」のは論理的に別物です。
「30万人よりは少ないだろう」という発言にしても「こういう根拠から20万人説をとるから」と「こういう根拠から30万人説は誤りであると考えるから」では全く別の意味になります。前者が特定の線引きによる推計値を前提とした30万という人数の否定であり、線引きが異なるのであれば30万人説を否定することにはならないのに対し、後者は30万人説を直接的に否定しています。
「30万人よりは少ないだろう」という言葉は本人にその意思がなくとも30万人説の否定と受け取られかねないということですね。

松永氏の場合は

繰り返して言いますが、30万人説だろうとなかった説だろうと10万人説だろうと1万人説だろうと、今の私には積極的にこれを選ぶということがまだできません。

という発言から考えて「こういう根拠から○○人説をとるゆえに、30万人よりは少ないだろうと考える」という立場ではないことは明らかですし、30万人説を否定する具体的根拠も持たないことも明らかです。
松永氏の「30万人よりは少ないだろう」発言は「特に根拠もないのに30万人説を否定する」発言と受け取られるだろう発言なわけで、そういう根拠なき否定を行うような姿勢は非難されても当然というものでしょう。*12

30万人よりは少ないだろうと考えると、中国側から「否定派」「歴史修正」と言われ、右翼からはサヨク呼ばわりされる。

という松永氏の発言は自らの発言が意味するところを理解していないだけでなく、相手の当然な反応を不当なものと認識しているかのような点においても駄目なものなわけです。


松永氏はこういう自らの発言を批判されたことに対し、「南京事件と日本人(柏書房)」から引用した笠原氏の主張をもって反論しようとしたわけですが、それで更に自らの発言の駄目さを明らかにしてしまっています。
南京事件と日本人(柏書房)」を読めば明らかなように笠原氏も30万人説には否定的です。しかし、笠原氏は自らの線引きを明確にして20万人と言う推計値を出しているわけで、笠原氏の否定にはその背景として自らが出した推計値に対する確信があるわけです。
それに対し、松永氏の「30万人よりは少ないだろう」発言は線引きを明確にしているどころか基本的知識すらあやしい具体的根拠を欠いたものでしかありません。
このような松永氏の考えが、何を南京事件での虐殺に含めるかの線引きを決めて数々の史料に基づいて推計値を出している笠原氏の考えと一致しているわけがありません。
松永氏はこの件について「なお、わたしは人数について、意見を保留します。笠原説の数字は一つの参考として見ています」と発言しているわけですが、この発言は「30万人はないと思うが、そう思う具体的根拠はない」と表明しているのも同じというものでしょう。
笠原氏の主張を引きながら、虐殺数については意見を保留することで、自らの否定には「線引きを明確にしたうえでの推計値」というような具体的根拠がないことを自ら示してしまっているわけです。
これは、松永氏の「30万人よりは少ないだろう」発言が偏見や先入観による思い込みによる判断であって、真実性に基づいた判断ではないことを自らの発言で示してしまっているというものでしょう。
専門家の説に依拠しないのであれば、例えば、何を虐殺とするのかという価値判断、地域的範囲、時間的範囲などを明確にし、自分なりの虐殺の範囲を定めた上で犠牲者数を算出して公表するというようなことをしてみればいいのに。
正直言って、松永氏がこのように笠原氏の主張を自らの主張の補強に使うのは都合の良い部分だけのつまみ食いであり色々と厚かましい行為でもあると私は思います。

諸説に対し「事実を知りたい人より、自分の抱いている歴史観に合致する見解を求めている人が多い」と思ってしまうような偏見

matsunaga 歴史 事実を知りたい人より、自分の抱いている歴史観に合致する見解を求めている人が多いのだと思う。南京事件については、何か言うと左右両派から批判されるので沈黙したくなる。「事実関係不明」が現状での正確な表現か 2009/05/30

はてなブックマーク - 南京事件を否定してしまうのは入門知識すら身につけてない証 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

松永氏のこの発言は南京事件論争に対する無知と偏見の表れというものです。
歴史的事実の否定に対抗するために行われる史料を積み上げての論争に対して「事実を知りたい人より、自分の抱いている歴史観に合致する見解を求めている人が多い」と思ってしまうのは単に無理解による偏見にすぎませんし、南京事件自体は数々の日本側史料に裏づけられているわけで「事実関係不明」なんてこともありません。
松永氏のこのような発言は批判されても当然のものだと私は思います。
それは、松永氏自身に偏見の表出という問題があるからであって、松永氏が偏見で思い描く虚像のような問題があるからではありません。
何か言うと批判されるのではなく、偏見を垂れ流しているから批判されるのです。
ちなみに、私は無知自体を責めるつもりはありません。公教育において近現代史を学習する機会が少ない以上、近現代史に無知な人が多いのは仕方がないことです。
問題なのは、無知でいながらこの手の先入観や偏見にはまみれていて、知ったかぶったことを言ってしまうことです。

アクションにリアクションがあるのは当然

そもそも「南京事件については、何か言うと左右両派から批判されるので沈黙したくなる」というような発言自体どうかと思うんですよね。アクションにリアクションがあるのは当然のことでしょうに。
「なかった説」を否定すれば「なかった説」な人が反応しても当然。
「史実派」と「否定派」を「どっちもどっち」というようなことを言えば「一緒にするな」という反応があっても当然。
「批判されるので沈黙したくなる」なんていうのは、自らの発言の結果に対する最低限の覚悟すら持たないことの表明だと私は思います。で、覚悟もないのに実際に沈黙することもできなくて、自らの発言の結果に対して泣き言を言い続けるわけなんですよね。
私は歴史修正主義のような史実を否定する行為を批判しますし、史実派と否定派の両方を批判することで史実派の主張を否定するような「懐疑派」も批判します。
当然、否定派からも「懐疑派」からも反応があるわけですが、それで自らを不当な非難の被害者とは思いません。
この論争における被害者は史実です。否定派に嘘だの捏造だのと否定される史実です。
私は、そういう史実を不当に「容疑者」扱いすることや、そういう「容疑者」扱いを容認するような言動も批判されて当然と思いますし、実際に批判しますし、そういう態度に対する反応があるのも当然と思いますが、それで沈黙したいとも思いません。
当然のことながら、これは史実とされていることに対し変更を許さないということではありません。史実に変更を加えたいならば歴史学的手順を踏まえればいいのです。

批判されている意味のすり替え

松永氏は自らの「「30万人」よりは少なかったのではないかと思う」発言を批判されたことに対し、scopedog氏のところでは以下のように発言しています。

現時点でどの数字とも定めがたいので判断保留、というのは、30万(なり他の数字)を否定し去ったことになるんでしょうか?
違います。現時点ではどれもまだ自分として採用しない、さらに検討する、という意味なのですが。
ただ、「○○説を受け入れない」のが許せないというのであれば、それはもうわたしは非難を浴びようが何だろうが、そんな断定をすぐにはしたくないと言います。

なかった説と30万人説は鏡像ではない - 誰かの妄想・はてなブログ版

「「30万人」よりは少なかったのではないかと思う」発言への批判に対して、このようにあたかも判断保留が批判されているかのような虚像を作り出して、それに対して反論するというのは、批判されている意味のすり替えというものでしょう。
松永氏が実際にしたことは「現時点でどの数字とも定めがたいので判断保留」ということではなく、「30万人よりは少ないだろう」というように特定の説を「疑わしい」と殊更に主張することです。30万人説を主張している人がそこにいるというわけでもないのに。
このような松永氏の30万人説への態度は、各種史料の提示により虐殺の事実を否定できなくなったときの否定論者の典型的反応に似ていると私は思います。その手の人々が見せる「自分は南京事件否定派ではなく30万人説否定派だ」というような反応に。
そうようにして「自分はなかった説を主張するようなバカではない」とアピールしながら、聞かれもしないのに「南京事件自体を否定しているわけではない。中国の30万人説を否定しているだけだ」と言うと。30万人説を主張している人はそこにはいないのに。30万人説を否定するための具体的根拠も持たないのに。

不誠実

matsunaga これはひどい より正確な実態を常に追求し続けるという意味での「現時点ではひとまず保留」が排除され、単に「左右のどちらでもないから安全と主張したいだけ」というレッテルが生み出されている。私は調べ続けるために留保する。 2009/06/09

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/scopedog/20090608/1244478216

松永氏はブックマークコメントにこう書いているわけですが、松永氏の発言を振り返るに「より正確な実態を常に追求し続ける」とか「私は調べ続けるために留保する」とかいう言葉は胡散臭いと私は思います。
「30万人よりは少ないだろうと考えると、中国側から「否定派」「歴史修正」と言われ、右翼からはサヨク呼ばわりされる」という昨日今日に南京事件に関する発言を始めたわけではないことを示す発言と、今までの発言からうかがえる知識の程度や偏見を照らし合わせて考えるに、正直、口先だけの綺麗事にしか聞こえません。
この件に関する一連の松永氏の発言は、すればするほど無知と偏見による思い込みで知った風なことを言っているだけということを明らかにしているというものです。
「私が保留するのはあったなかったではなく「人数」「規模」」と発言しておきながら「なかった説」を選択肢から消さないような態度を含め、松永氏の言動は、この手の表面的態度に反し、甚だ不誠実なものだと私は思います。

選択的無知

松永氏が知能の問題でこういうことをしてしまうとは私は思いません。松永氏が知能的な意味で「あたまがわるい」わけがありません。
笠原十九司氏が「「30万人説」を否定しているという事で中国から批判されてますが(笑)」と論拠も示さずに主張するkikori2660氏と、裏も取らずにその主張を広めるのに協力する松永英明氏 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかに見られるように、論点になっていることには応答せず、偽の論点を作りだし、その偽の論点に反論し、あたかも自らが不当な非難をされているかのように振る舞い、第三者に向けて「同情されるべきかわいそうな自分」を演出したりするということ*13を延々と繰り返すというのは思索をめぐらさないとできないことであり、「あたまがわるい」人にそういうことができる筈がありません。



念のために言っておきますが、これは皮肉ではありません。むしろ、そういう松永氏の不誠実な態度に業が煮えているという方が正確。
松永氏は記事を書くにあたり関連書籍を購入して入念に下調べをした上で分析してまとめることができる人間であり、明らかに知能的には優秀な方の人間です。
そういう人物が南京事件に関してはそれをせず、無知と無理解のまま偏見まみれな発言をし続ける。それが知能の問題ではないことは明らかです。
ならば、何の問題かといえば、意識的であれ無意識的であれ、それは動機の問題であり、つまるところ心理の問題です。
「頭が悪い」のではなく「心が悪い」のです。*14
松永氏のような人物が批判に対してずれた回答をし続けるのは、知能的に自らが何を批判されているのか理解できないからではなく、まともに回答した結果を受け入れられないからです。それは論拠提示要求に対して松永氏が「謝罪の強要」と言ってしまうようなことから明らかというものでしょう。
松永氏のような人物が無知なまま発言し続けるのは、経済的条件や社会的条件などにより知識への門が閉ざされているからではなく、(「私は調べ続けるために留保する」というような自らの言葉に反して)知ろうとしないからです。それは松永氏の発言から透けて見える下調べの程度から明らかというものでしょう。松永氏は、知能的に無知なのではなく、心理的に無知であることを選んだのです。

偽装懐疑派

このような松永氏の態度をどう呼ぶべきでしょうか?
自称懐疑派?
例えば、自らの選択的懐疑に無自覚で、自己認識では自らの懐疑は知るためのものであり誠実さによるものと思い込んでいるような人であれば、そう呼んでも構わないと思います。
しかし、思索を重ねた結果と思える反応を見る限り、松永氏がそういう人だとは私には思えません。
既になかった説がありえないことを知りながらそれを選択肢から消そうとしない態度や、以前から「30万人よりは少ないだろう」的な態度で言及し続けていながら基本的知識すら身につけていないことを示す態度などは、本当は知る気がないどころか、知っても認識を改める気もないというような松永氏の不誠実さを示しているというものでしょう。
笠原十九司氏が「「30万人説」を否定しているという事で中国から批判されてますが(笑)」と論拠も示さずに主張するkikori2660氏と、裏も取らずにその主張を広めるのに協力する松永英明氏 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかのようにid:kikori2660氏のブックマークコメントを鵜呑みにしてしまうような反応には(松永氏の南京事件論争に関する知識の程度だけでなく)松永氏の事実関係というものに対する態度が表れていて、「私は調べ続けるために留保する」というような主張が口先だけのものでしかないことを示しているというものでしょう。
何を鵜呑みにし、何を懐疑し、どのように言及するかによって松永氏は自身の偏りを既に明確にしてしまっているわけです。
これらの態度を見るとつくづくと思うんですよね。
松永氏の懐疑は知的に誠実であるがゆえのものではないと。
他者にそう見えるように偽っているだけだと。
私は松永氏のこのような態度を偽装懐疑派とでもよぶべきだと思います。

買いかぶり過ぎているのかもしれない

長々と書いておいてなんですが、上記のような推測は私自身の偏見による間違いであることも考えられるわけです。
もしかしたら、松永氏の言動は一貫した意思のもとでなされたものというより場当たり的なものなのかもしれませんし、知能的に高度に計算された結果というよりその場しのぎの言い逃れの積み重ねなのかもしれません。
自らが不当な非難をされているかのように振る舞う松永氏の態度にしても、第三者に向けての演出というより、自分で設定した「負けられない戦い」に自ら縛りつけられ、そういう自分を取り繕うのに必死な哀れな男の自己欺瞞への逃避の姿なのかもしれません。
偽の論点を作り出してそれに反論するような自らの歪曲にも無自覚で、自己認識では「無理解な凡俗どもに迫害される可哀想な自分」という世界にいるのかもしれません。
「なかった説」がありえないことを知りながら「なかった説」を選択肢に残すような態度にしても、もしかしたら「左のキチガイうぜえ。しかし、なかった説を否定したら今度は右のキチガイにもからまれることになるかもしれない。選ばないが選択肢には残そう」というような(これ以上追及されたくないという結論が先にあっての)打算の結果だったりするのかもしれません。
松永氏の実際の言動は「より正確な実態を常に追求し続ける」からも「私は調べ続けるために留保する」からも程遠いものですが、もしかしたら、こういうことを全て無自覚でやっていて、自己認識では自らの言葉通りの人間なのかもしれません。
むしろ、私が松永氏の能力を買いかぶり過ぎているだけで、それらの可能性の方が高いかもしれません。
自我を防衛するために自らの弱さや愚かさを認めることができず、自らの言動に対して合理化を行うというのは人間にありふれて見られる反応ですから。

合理化の罠

非合理的な合理化の例は、よく知られている笑い話のうちにみられる。隣人からガラス瓶をかりたひとが、それをこわしてしまう。そレて、返してほしいと請求されたとき、かれはつぎのように答える。「第一に、それはもう返したはずだ。第二に、かりた覚えはない。第三に、かりたとき、すでにこわれていた」と。「合理的」な合理化の例は次のようなときにみられる。経済的に困っているAが、親戚のBに、金をすこしかしてくれと頼む。Bはそれをことわり、金をかすことは、Aの無責任な、他力本願のくせを、ただ助長するだけであるという。さてこの論理はまったく健全なもののようである。しかしそれにもかかわらず、それは一つの合理化である。なぜならBはどんな事情にせよ、Aに金をもたせることをのぞまなかったのであるから。かれは、自分ではAの幸福を願ってのことであると思いこんでいるけれども、じっさいには、かれのけちくささが原因である。
それゆえ、ただある人間の述べていることの論理性を決定するだけでは、合理化かおこなわれているかどうかを知ることはできない。われわれはひとりの人間のうちに働いている心理的な動機を考慮しなければならない。重要な点は、なにが考えられているかではなく、どのようにそれが考えられているかということである。能動的な思考から生まれてくる思想は、つねに新しく独創的である。独創的ということは、必ずしも他の人間が以前に考えなかったという意味ではなく、考える人間が、自分の外の世界にしろ内の世界にしろ、そこになにか新しいものを発見するために、その手段として思考を用いたという意味においてである。合理化には本質的に、このような発見と、おおいをとるという性質がかけている。すなわち、それはただ自己のうちに巣くっている感情的偏見をかためるだけである。合理化は、現実を洞察する手段ではなく、自分自身の願望を、存在する現実と調和させようとする事務的な試みである。

自由からの逃走(東京創元社)P213-214より。
人間が自己認識での自分を護るために偽りの理由を述べがちな生き物であることは古くから知られていることです。
自己認識での自分を美化したい、あるいは正当化したいという欲望は相当なもので、その自らの欲望から結論は予め決まっていて、その結論に向かって理屈を捏ねているだけなのに、その結論を合理的に考えた結果と思いたがったりとか、客観的に見ると、本当、無様で醜い生き物ですよね。
で、そういう心理的な自己防衛のための性質が同時に心理的脆弱性となり、ときには自ら嵌ったりとか、ときには相手を誘導する心理操作技術に利用されセールステクニックなどの形で活用されたりとか、困ったものだと思います。
しかし、いかんともしがたい、というわけでもありません。
そういう心理的脆弱性は克服できないわけではありませんから。

この章では、自分の過去の行動を正当化しようとする傾向が合理化をエスカレートさせ、これが悲惨な結果を招きうることを見てきた。愚かで道徳にもとる人間と思いたくないがために、まさにその愚かで道徳にもとる行為を行う舞台が用意されるというのは、じつに皮肉なことである。この合理化の罠に陥らないための方策はあるのだろうか。ほとんどの人が自分の行為を正当化するために躍起になることは明らかであるが、もしわれわれが正当化に終始するばかりであれば、自分自身の経験から何かを学び取ることができない、ということも、また明らかなことである。結局のところ、人間は、協和だけでは生きていけないのである。
われわれの日常の経験では、自分のミスを勇気をもって認め、過ちから学ぶことによって合理化の罠を断ち切る人びとがいることを知っている。どうやって、どのような条件のもとで、そうすることが可能となるのだろうか。理想的には、ミスを犯したとき、そのミスを否認したり、歪曲したり、正当化したりという、自我を防衛する傾向を中断することができれば、それは大変結構なことであろう。「いいさ、諦めよう。高い授業料だったけど、いい勉強になった。二度とこういうことにならないようにしよう」と、自らに言い間かせるのである。そのためにはまず、人間には自己を防衛し不協和を低減しようとする性向があることを理解しなければならないし、それに加えて、訂正が必要な過去の行動を正当化するのではなく、それを受け入れて立ち向かうだけの強い自我が必要である。
しかし、誰でもそれが口で言うほど実行が容易でないことを知っている。われわれは、誤りに対して寛容でなく、失敗を罪悪とみなすような文化のなかで生活している。落第した子どもはしばしば嘲笑の対象となるし、大リーグの選手でもそのシーズン良い成績があげられなければ、解雇されるかもしれないのである。しかし、他者の失敗にもっと寛容になることができれば、自分自身の欠点に対しても、それを受け入れることができるようになるかもしれない。そうすれば、どんな行動であれ、ほとんど自動的にそれを正当化してしまうことはなくなるだろう。

プロパガンダ(誠信書房 )P44-45より。
自己防衛のために合理化に至るような心理的脆弱性を克服する手段。それはこの書籍に示されているように、自らの失点を認める勇気を持つこと。
この書籍でも示されているように、それは困難なことです。
それでも理想を言えば、全ての人間はそのような心理的脆弱性を克服すべきだと私は思います。
他者に騙されて誘導されることがないようにするためだけでなく、自分自身を騙さないためにも。
現実問題を言えば、ストレス耐性が低い人はそのストレス負荷に耐えられないので、そうなることは無理でしょうし、そういう人にそうなることを無理強いしようとも思いませんが。
合理化は人間が自らの心を護るための正常な反応であり、使い方次第では有用なものでもあります。いくら心理的脆弱性を克服しようと心が壊れてしまっては元も子もないというものです。


それと、過去の自分の失点を認めるようなことを言っているからといって、必ずしもそういう心理的脆弱性を克服できているとは限らないのも問題。過去の自分の失点を認めた上で自己防衛のための合理化を行うこともできますから。
そういうことは「ネットde真実」な人々を見ても明らかでしょう。
「ネットde真実」とは、「ネットで真実に目覚めた」と主張するような人々のことを揶揄する言葉なわけですが、
そう主張する本人は覚醒したつもりでも歴史修正主義ヘイトスピーチ陰謀論などに騙されているだけだったりするわけです。
そういう人々は往々にして「自分は日教組自虐史観教育に騙されていたが、今はネットの情報で真実に目覚めた」というようなことを言ったりするわけで、自らの過去の失点を認めているわけですが、そのように自らの失点を認めているからといって彼らが自らの心理的脆弱性を克服できていないことは明らかでしょう。現在の言動の問題への批判に対する彼らの様々な自己防衛反応を見れば。
結局のところ、彼らは現在の自分が騙されていることを認める勇気を持たないままなわけです。
つまり、自らの過去の失点を認めても、そういう勇気を持たないまま自己イメージが傷つかないよう「処理」してしまえる方法があるということ。
「ネットde真実」な人々の場合、自らが日教組なりマスコミなりに「騙された」ことについても「みんな騙されている」というように考えれば相対的に引け目を感じないで済むのかもしれません。むしろ、自らを「みんな騙されている」中で他者に先駆けて「騙された」状態を脱した「先知先覚者であり情報強者」であるというように認識すれば、自己認識での自分に対するイメージは損なわれるどころか、むしろ上がるのかもしれません。「ネットde真実」な人々が「未だ真実に目覚めえぬ愚か者ども」を見下すような言動をしがちなのもそれによるのかもしれません。
少なくとも「現在の自分」を「覚醒」した「超越者」とすることにより「過去の自分」より「優れた存在」になったと思い込むことはできるわけです。
自らの弱さや愚かさを「過去の自分」のものとして「現在の自分」から切り離してしまうことでも自己防衛のための合理化はできてしまうと。実際にはそれらを克服できていなかろうと。
過去の自分の失点を正当化する以外にも合理化の形は色々あるわけです。それらを駆使すれば駆使するほど自己認識と実際の言動は乖離していくわけですが。

自己欺瞞への逃走

もしかしたら、松永氏もそのように様々な合理化を駆使しているだけの人なのかもしれません。

わたしは国家(ネーション)という枠組みそのものから離れたところで発言している。

http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090420/p1#c1240287265

などの松永氏の自己認識と実際の言動の乖離を示す一連の発言を見るに。
松永氏自身は本心から自分自身に対してそうありたいと思っているのかもしれません。
しかし、実際の言動を見る限り、松永氏は自分自身の心をそのようにプログラムすることには失敗しているようです。
こういう言動を見ると、松永氏の言動は自覚を欠いたものであり思索を重ねた結果ではないのではないかとも思えてくるわけです。
松永氏は自らの心理的脆弱性に敗北した結果、様々な自己欺瞞を無自覚に重ねているだけなのかもしれません。
そのように思わせるのも計算の内だとか言われたら笑うしかないですが。

あるいは見損なっているのかもしれない

以上のように松永氏の言動について自覚しての場合と無自覚な場合に分けて書いたのは無闇に内面を忖度しているわけではないことを示すためでもあります。
見えない内面についての話でも取りうる幅の両端について言及すれば無闇ではなくなるぞというだけの話ですが。


例えばの話ですが、相手が理解できないという反応をする原因を大雑把に分類すると

  1. 自分が理解不可能なことを言っている場合
  2. 相手が理解しない場合
    1. 相手に理解する知能がない場合
    2. 相手に理解する知能があるが、心理的に理解した結果の不協和を受け入れられないので理解することを拒否する場合
    3. 相手に理解する知能があり、心理的にも理解することを拒否しないが、結果を受け入れられないので理解できないふりをする場合

というようになります。(彼我を入れ替えても別にかまいませんし、「理解しない」を「誤読する」や「曲解する」に置き換えてもいいでしょう)
自分が理解不可能なことを言っている場合と相手に理解する知能がない場合はとりあえず置いといて*15、相手に理解する知能がある場合、理解できないふりをしているのか、理解することを拒否しているのかは、内面の問題ゆえに簡単に区別できません。そういう場合でも両方について言及すれば、いずれも内面の忖度であっても無闇ということにはならないだろうというくらいの話。(いやらしい)


そういうこともあって、自覚しての場合と無自覚な場合の二通りで書きました。厳密には自覚と無自覚の間にも段階があるわけですが、それらについては必然的に両端の間にあるので省きます。
松永氏の言動がこの両端の間のものなのであれば、この話はここで終わりです。
しかしながら、そうでない可能性もあるわけです。
もしかしたら、松永氏は本当に「より正確な実態を常に追求し続ける」とか「私は調べ続けるために留保する」とかの言葉通りの人間なのかもしれません。そこから程遠いように見えるのは、たまたま発言のタイミングが悪かっただけなのかもしれませんし、私の認識の方が歪んでいてそのように見えるだけなのかもしれませんし、その他様々な別の要因によるのかもしれません。
それを確認する方法は簡単です。
もし、松永氏が自らの言葉通りの人間であるならば、当然、多数の本を読むなどして南京事件について調べて知見を深めている筈。この記事の題材になっている発言から一年以上も間が空いてもいるわけですし。
なので、松永氏には、自らの言葉の証を立てるためにも、現時点での追及し続け調べ続けた結果を出典とともに公表してもらいたい。なんてことは言いません。
私自身が松永氏にそういうことができるとは思っていない以上、心にもないことですし、嫌味なだけですから。
どうせ言ったところで無視かぼやき記事をどこかで書くかぐらいだろうとも思ってますし。
しかし、実際にそのようにして証を立てて私が長々と書いてきたようなことの方が間違っていることを示してくれるのに越したことはないとも思います。
仮に松永氏がそういうことを実際にしてくれたら、偽装懐疑派などの言葉は撤回してお詫びしますし、「真意を確かめるためにやった」というように私自身の松永氏に対する言葉を正当化することもしません。
もし、証を立てるどころかどうしようもないことを書いてきたら……そのときのことはそのときに考えます。

自由からの逃走 新版
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*1:より詳しくは「虐殺少数派」のトリック - 模型とかキャラ弁とか歴史とかを参照してくださればと思います。

*2:「日本軍最強伝説」は歴史修正主義者の捏造宣伝 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

*3:どこかにはいるのかもしれませんが、南京事件の場合と異なり、話題になると必ずのように出没するというようなことはありません。今のところは。

*4:言及することは、少なくとも言及するだけの関心は持っていることの表れでもあるわけです。

*5:「数々の象徴的数値を素直に受け入れているのに、何故、南京事件については象徴的数値を疑うのか」など。

*6:この手の「どっちもどっち」派が「両方から非難される」と被害者ぶるのもよく見られます。こういう姿勢には、両方から非難されるのは両方が間違っていて自分が正しい証であるかのような、「両極端が間違っていて、中間値が正解」であるかのような、そのような思いが透けて見えるような気がします。もしそうならば、そのような思いの方が間違っているだけのことですが。歴史学と似非歴史学の間で「中間値」を取ることは正と誤の間で中間値を取ることが間違いであるのと同様に間違いです。加えて、「不当な非難の被害者」という立場の詐称というものでしょうね。

*7:歴史修正主義批判がなされるのは「絶対的真実としての歴史があってそれに対する修正を許さない」からではない - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

*8:「よく知らない」のに「中国は南京事件の犠牲者数の値を増やし続けている」というデマなど否定派の主張は鵜呑みにしている「一見様」 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかのコメント欄

*9:笠原十九司氏が「「30万人説」を否定しているという事で中国から批判されてますが(笑)」と論拠も示さずに主張するkikori2660氏と、裏も取らずにその主張を広めるのに協力する松永英明氏 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

*10:多分、「調べ続けるために留保する」ことをしなかったのでしょう。

*11:より詳しくは戦史上の南京事件 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかを参照してくださればと思います。

*12:そもそも「30万人説だろうとなかった説だろうと10万人説だろうと1万人説だろうと、今の私には積極的にこれを選ぶということがまだできません」と本当に考えているなら「30万人よりは少ないだろう」と発言したりはしないだろうと私は思います。

*13:「その姿勢は、断定しないがゆえに、このように非難される」という発言はその一例。偏見や具体的根拠の無さが批判されているのに、断定を避けることが非難されているかのようにすり替えを行っているわけです。

*14:誤解のないように補足すると、この場合の「悪い」は邪悪の悪ではなく劣悪の悪です。

*15:これらについては周囲の反応がある程度の指標となります。