南京大虐殺における殺戮の簡略な分類

南京事件(南京大虐殺)は日本軍が当時の中国国民党政府の首都である南京を攻略する際に発生した事件です。
揚子江(長江)のほとりにある南京は市街地の周りに城壁をめぐらした城砦都市で、日本軍はこの南京に対して上海から西進してきた陸軍と揚子江を遡上してきた海軍の協同による徹底した包囲殲滅戦を行いました。
この包囲殲滅戦とその後の残敵掃討戦において日本軍は中国軍民に対して様々な残虐行為を行いました。
その様々な残虐行為の内、殺害に関して以下に簡略に分類します。

1.捕虜及び投降兵の殺戮

投降した中国兵の処刑。国際法的に黒。
戦闘詳報や陣中日記といった日本側史料だけでもその事実は明らか。
以下に一例を挙げます。

第114師団 第66連隊 第一大隊戦闘詳報


〔12月12日午後七時ごろ〕
最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果 大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般 に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。


〔12日夜〕
捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二十名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。


〔13日午後2時〕
連隊長より左の命令を受く。旅団命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。


〔13日夕方〕
各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南方谷地付近において刺殺せしむることとせり。各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。

http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/jp_gun/houkoku.html

捕虜殺戮の中には、このように投降を呼びかけて捕虜にした後に殺戮した例もあります。経緯がどうあれ、助命を信じて投降した側にしてみれば裏切り以外の何ものでもないというものでしょう。


こうした捕虜の殺戮には家族持ちの捕虜の場合、ともに捕虜となった妻子の殺害を伴うこともありました。

堀越文雄陣中日記
第13連隊 山田支隊 歩兵第65連隊

〔一〇月六日〕
帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。
〔一一月九日〕
捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人、子供一人、これも突かれたり。

http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/jp_gun/jintyu.html

日付けから考えてこれは南京事件の期間外のことですし、この短い記述からは、これが家族持ちの捕虜の妻子の殺害を意味するものであるか否かはわかりませんが、日中戦争において、捕虜の中には女子供も含まれていたこと、そういう女子供の捕虜も殺害されていたことはわかるというものでしょう。

2.南京からの脱出を図る敗兵と難民の殺戮

日本軍による捕虜処刑は中国軍民に知れ渡り、捕まれば殺される以上、国民党軍兵士に日本軍に投降するという選択肢はなくなりました。
そういう状況において、戦意を失い敗走する国民党軍と日本軍による攻撃から避難しようとする民間人。日本軍はそういう逃げようとする中国軍民を殺戮しました。
一例を挙げると、下記引用文のように揚子江を渡河して逃亡しようとする国民党軍を殺戮しています。

南京遡行作戦経過概要 第一掃海隊

〔烏龍山水道より南京下関まで(一二月一三日)〕
一三二三(一三時二三分、以下同じ)前衛部隊出港、北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ閉塞戦を突破、沿岸一帯の敵大部隊および江上を船艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、全滅せる者約一万に達し・・・・・一五三〇頃下関付近に折から城外進出の陸軍部隊に協力、江岸の残兵を銃砲撃しつつ梅子州付近まで進出し、掃海索を揚収す・・・・終夜江上の敗残兵の掃討をおこないたり。

http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/jp_gun/houkoku.html

投降せずに逃げる敵を攻撃するのは国際法的には不法ではありません。
しかし、南京事件においては投降という選択肢が奪われていたことを考慮する必要があるというものでしょう。
こういう殺戮を虐殺に含むか含まないかについては価値判断により意見が分かれるというものでしょうが、そういう事件があったということには変わりはないというものです。

3.残敵掃討戦においての無裁判処刑による殺戮

日本軍による南京占領後、南京入城式を控えて万が一にも不祥事がないようにと行われた「便衣兵狩り」及び
南京入城式後も続いた敗残兵狩りによる殺戮。
中国軍の敗残兵の中には軍服を捨て便衣(平服)となり民間人の中に逃げた者もいました。これに対し日本軍は敗残兵狩りを実施したわけですが、その選別方法は出鱈目なもので、数多くの民間人がこの巻き添えになったことは否定できません。

一月一五日 土曜日
午後、夫や息子が連行されたまま戻ってこないという二六人の女性の事例を日本大使館に報告した。いずれの事例でも、夫がかつて兵士であったことはなく、多くの場合が大勢の家族を養うただ一人の稼ぎ手だった。大量虐殺がおこなわれた当初のあの残虐非道の時期に、このような人たちがどれほどたくさん殺害されたことだろう。当時は銃声が聞こえるたびに、だれかが―おそらく何の罪もない者が―殺されたのだろうと思ったものだ。

資料:ヴォートリン日記に見る「連行事例」

というようなヴォートリン日記での記述だけでなく、敗残兵狩りの実相で紹介されているような日本側資料でも、その選別方法がいかに出鱈目だったかわかろうというものです。


日本軍は敗残兵狩りにおいて捕縛した相手を裁判なしに処刑していたわけですが、捕縛したのが仮に本当に便衣兵であったとしても裁判なしでの処刑は国際法的に黒*1

4.犯罪行為による民間人殺害

強姦後の殺害、物資の「徴発」(事実上の略奪)や荷役夫としての「徴用」(労働強制)に伴う殺害、そうした理由すらない殺害など、戦闘とは無関係な民間人の殺害も多数発生しました。
これらに関しては、当時、南京に滞在していた外国人の日記などから知ることができ、http://kknanking.web.infoseek.co.jp/mondai/simin/simin_a1.html#fitch01でその一部を読むことができます。
当時の日本軍の軍紀の乱れによる犯罪行為の犠牲者を虐殺に含むか含まないかについても、これまた、価値判断により意見が分かれようというものでしょうが、そういう事件があったということには変わりはないというものです。

まとめ

南京事件では女子供老人も含む多数の人々が犠牲となりました。
以上のようなことは南京事件「どっちもどっちなので保留」派は日本側史料を読むといいよ。 - クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)でも指摘されているように日本側史料からだけでも明らかです。
南京大虐殺は様々な殺戮の集合体であり、その総犠牲者数を正確に特定することは困難なものの、だいたいこういう期間にこういう地域でこういう殺戮があったというようなことは歴史学的にはほぼ確定している事件です。*2
新たな史料の発掘により、犠牲者数の推計値の精度が高まることはありえますが、その全体像が大きく変わるということはほぼありえません。*3


問題はその内のどれだけの範囲を南京大虐殺における虐殺数に含めるかということ。
これらの条件の内、期間的範囲と地理的範囲は、実のところ、あまり重要な問題ではありません。
南京事件の犠牲者数は包囲殲滅戦時とその後の残敵掃討戦時に集中しており、期間的範囲をその範囲から広げても南京事件の犠牲者数が大きく増えることはありません。
また、包囲殲滅戦と残敵掃討戦という南京戦の性質上、南京事件の犠牲者は南京城区とその近接地域に集中していますから、地理的範囲をその範囲から広げても南京事件の犠牲者数が大きく増えることはありません。
重要なのは様々な殺害事件の内のどれだけを虐殺の犠牲者としてカウントするか。
それは投降するという選択肢を奪っておきながら投降せずに逃げる相手を殺戮したことを虐殺に含めるか否かというような線引き問題であり価値判断の問題です。*4
南京事件の虐殺数には諸説があるわけですが、学問的な説においてそのどれにコミットするかは事実認識の問題というよりはこういう価値判断の問題の色が強かったりするものなわけです。*5


南京大虐殺の犠牲者数については、それが当時の南京城区とその近接地域の人口規模と当時の日本軍の性質による結果であることも重要な問題というものでしょう。
もし、そうした南京周辺地域の人口規模が大きければ犠牲者数は増えたでしょうし、人口規模が少なければ犠牲者数は減ったでしょう。もし、そのようにして犠牲者数が減ったとして、それで日本軍の性質は、その分、非道くないといえるでしょうか?それで当時の日本軍の構造的問題が、その分、無くなるのでしょうか?そんなことはないですよね。


後、よく認識してほしいことは、南京事件での犠牲者は日中戦争全体での犠牲者の極一部であるということ。
盧溝橋事件が1937年7月7日、南京事件が1937年12月から翌年の数カ月に渡る期間の事件であることから明らかなように南京事件日中戦争の序盤のできごとです。
日本軍による南京占領後も国民党は重慶に首都を移して抗戦を継続したわけで、そういう点においては南京事件自体が日中戦争全体における一事件にすぎないわけです。
そういう南京事件が注目を浴びやすいのは、南京事件否定派がひき起こした論争によるわけですが、そうした論争により日中戦争の中で南京事件だけが注目されることで、日中戦争全体での犠牲者に目が向かいにくくなるという現象が発生しているのではなんて私は思います。はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`) : 「尖閣衝突…まず日本は中国人2千万人虐殺謝罪しろ。尖閣に自衛隊?…日本がおかしくなる訳だ」…美味しんぼ・雁屋哲 - ライブドアブログとかを見るにつけ。

この記事を書いた理由

tdam "日本軍は投降した中国国民党兵捕虜を国際法無視で殺害しました"投降したという根拠はある?直後に書いてあることと矛盾。"軍民の区別なしの殺戮"これも嘘。結局、虐殺犠牲者数は「虐殺」の定義をどう引くかで決まる 2010/12/31

はてなブックマーク - 南京大虐殺と選択的無知 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

tdam "東京裁判を受諾したので南京大虐殺の犠牲者数は20万人〜30万人で確定"史実の根拠を一裁判に求めるという歴史研究者がいたら会ってみたい。まあ、皮肉だろうけど。"歴史学的には決着がついていますね"流石に嘘だろw 2010/12/31

はてなブックマーク - サンフランシスコ平和条約で東京裁判を受諾したので南京大虐殺の犠牲者数は20万人〜30万人で確定ということで - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

というようなブックマークコメントをid:tdamさんがしているのに気づいたから。
正直、本当に当該記事を読んだのか疑問に思うレベルのコメントですので、今回の記事を読んでもらったうえで読み直してほしいと思います。


後、微妙に気になったのがid:md2takさんのこのブックマークコメント。

md2tak 書物も挙げたらいいのに/ネット上の資料だけでは南京事件があったと判断するのは原理的に不可能/できてもwikipedia盲信と同じ誤謬を引き起こす/結局、史料評価に対する判断を共有できるかに掛かっているのか? 2010/12/31

はてなブックマーク - 南京事件を否定してしまうのは入門知識すら身につけてない証 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

それ見あきたわー。不可知論への逃走あきたわー。
というようなことはさておき、書物でしたら件の記事で紹介しているサイトにいくらでも挙げられているでしょうに。というか、その記事からリンクされている私の他の記事にも書物が挙げられていますよね。
ネット云々というのは仮にそれが真だとして、ネットをきっかけに実際に本を読んで調べたり、あるいは直に原資料にあたるところまで行くようになればいいのではないかと思います。
私の経験から言うと、疑わしいと言い続けることが目的となっているような自称懐疑派な人は書物を読むどころかリンク先すらまともに読みはしないことが多いように思いますけどね。

*1:http://kknanking.web.infoseek.co.jp/aandv/ilow01_01.htm参照

*2:http://kknanking.web.infoseek.co.jp/sougou/encyclopedia.htmには南京事件が事典にどのように記述されているかがまとめられています。特に差し障りがないなら山川出版社の山川世界史小辞典(改訂新版)の記述を鵜呑みにしてはいかがかと思います。試験勉強的な意味で。←これ、どれくらいの人に通じるのかな?

*3:もちろん、より正確な値が望ましいのは確かなことですので、焼却・隠滅を逃れた日本側史料が公開されるというようなことがおこるにこしたことはありません。

*4:この例でいえば私は虐殺に含める派です。投降せずに逃げる敵を攻撃するのは不法ではなくとも、投降という選択肢を奪っておいてのそれは不公正であり虐殺に含めるべきだと思います。

*5:まあ、そういうことも知らずに犠牲者数が少ないからという理由で虐殺少数説にコミットしているような人もたくさんいるとは思いますが。