歴史修正主義と「右でも左でもない人」 − ある種の問題に思想の左右の対立を幻視する人々

南京事件否定論従軍慰安婦否定論、ホロコースト否定論といった歴史修正主義歴史学的事実を嘘扱いする嘘です。
歴史修正主義とそれに対する史実派のカウンターアクションである反歴史修正主義との対立は思想の左右の問題ではありません。それは歴史学的事実に対する正誤の問題であり、史実に対する誠実さの問題であり、それを思想の左右の問題と認識する方に問題があるというものです。
この文ではそのように歴史修正主義と反歴史修正主義の対立を思想の左右の問題と認識しコメント欄などで「自分は右でも左でもありませんが、○○は××だと思います」というような種類の発言を行う人のことを括弧付きで「右でも左でもない人」とします。


ここで仮に「右でも左でもない人」の認識のように歴史修正主義と反歴史修正主義を思想で分けてみましょう。
歴史修正主義であるところの史実派には思想的には保守からリベラルまで様々な人がいます。
それに対し、南京事件否定論を唱えるような歴史修正主義者は仮に右派としてもウルトラライト極右。なぜ重ねたし。
「右でも左でもない人」のように歴史修正主義と反歴史修正主義の間で中立を気取るということは極右とそれ以外の思想の間にいるということであり、思想的位置はこういう感じになります。

極左 左派 中道 右派 極右
           ↑
      「右でも左でもない人」


このように「右でも左でもない人」の思想的立ち位置は極右より左側の思想と極右の間となります。
この手の主張をする人は自らの思想を極右ではない程度の右派と言っているようなものなわけですね。
史実派と歴史修正主義者の間にいることを「右でも左でもない」と認識するということはこういうことです。
繰り返しになりますが、史実派であるか否かは思想の左右の問題ではありません。
歴史学的に正の主張を行うのが史実派であり、歴史学を嘘扱いする嘘の虜であり歴史学的に誤の主張を行うのが歴史修正主義者です。
そして、「右でも左でもない人」は自身がそうであり続ける限り歴史学における正誤の正に立脚することは決してできません。

日本軍最強伝説のような捏造宣伝と「右でも左でもない人」

このブログでも何度か扱っています*1が、日本軍最強伝説は「あいつらはこういうバカなことを言っているぞ」という嘘で人を騙す捏造宣伝です。それは「当時の南京の人口は20万人。人口20万人のところで30万人は殺せない」*2レベルの否定論を書きかえたものでしかありません。
日本軍最強伝説はそういう嘘を鵜呑みにしてしまうような懐疑精神の欠けた人向けの捏造宣伝であり、こういうのに乗じて人をバカにする方が本当のバカというものです。
しかしながら、こういう「当時の南京の人口は20万人。人口20万人のところで30万人は殺せない」レベルの嘘を受け売りしている「右でも左でもない人」は数多くいます。
そういう歴史修正主義者の嘘を受け売りしていながら自己認識では懐疑的なつもりの「右でも左でもない人」の姿を見ると「バカな右翼とバカな左翼の宣伝戦に惑わされず懐疑精神で事実を見極めようとする自分」というのはさぞかし気持ちのいい夢なのだろうと思わされます。
歴史修正主義者は自らの主張により「右がバカなことを言っている」と「右でも左でもない人」に思われる一方で、日本軍最強伝説のような捏造宣伝により「左もバカなことを言っている」と「右でも左でもない人」に思わせることができているわけです。
そして「右でも左でもない人」は「バカな右」と「バカな左」の間にいると思いこむことで相対的に自分を賢明だと思い込めるわけです。
そういう「右でも左でもない人」は「バカな右」が作り出した話に踊らされているだけという話。つまり「本当にバカなのはお前だ」という話です。そんなのに踊らされる程度の知識で訳知り顔というのは頭がウルトラライト(軽いという意味で)過ぎるというものでしょう。

聞く耳を持たない「右でも左でもない人」

「右でも左でもない人」はネットでの聞きかじり程度の知識と偏見で作り出した虚像(「史実派は中韓の言うことを鵜呑みにしているバカ」など)に基づいて史実派の人にからんでくることがしばしばあります。
そして、その虚像の程度があまりにも低すぎるために相手にされなかったり怒られたりすると「右も左も話が通じない」と言いだしたりします。当然のことですが、話が通じる通じないに思想の左右は関係ありません。
私としては、相手ではなく脳内の虚像に対してシャドーボクシングを続ける人が「シャドーボクシングなら他所でやれ」と怒られるとしたらそれは正当だと思いますが、「右でも左でもない人」にとって自身の意見は冴えたものに思えるのでしょう。
対話において相手が怒る場合、痛いところを突かれて怒るのと荒唐無稽な話につきあわされて怒るのとはまったく異なります。「右でも左でもない人」の場合は後者なのですが、おそらく本人の認識は前者。
「右も左も話が通じない」と思い込んでいる「右でも左でもない人」自身が相手の話にまともに向き合わず脳内の虚像に対して延々と公開シャドーボクシングするだけの話が通じない人だったりするという話。
まあ、相手にすれば相手にしたで反論に対し「右でも左でもない人」は即座に被害者意識丸出しで理解拒否モードに突入したりするんですけどね。感情的であることをもって他者を批判する人々はこういう人をこそ批判するべきだと私は思います。
当然のことですが、間違いを指摘されてもそれを認められず自己欺瞞の壁に閉じこもって理解拒否モードに入る人も思想の左右を問わずにいます。

「右でも左でもない人」は右でも左でもないことが目的となってしまっている人なのかもしれない

「右でも左でもない人」はなぜ「自分は右でも左でもありませんが」というように聞かれもしないのに自己評価での自らの思想的位置を言いたがるのでしょうか。
私は一つの仮説として「右でも左でもない人」は右とか左とかに分類されることを恐怖する人々なのではないかということを挙げます。
それはつまり普通の範疇から外れることを恐れる人々ということであり、多数派の一人であることから外れることを恐れる人々なのではないかということです。
聞かれてもいないこと、つまりその場でそのように言う状況的な理由がないのにそのように言う理由。それを心理的なものと解するならば、それは自らの言動により他者に右とか左とか判断されることに対する忌避感情であり、自らの言動の結果として他者に判断される前に予め自らの思想的位置を宣言しているのではないか。そのように思うのです。
「右でも左でもない人」が「右も左もバカ」的なことを言いたがるのを見ると、「自分は右でも左でもありませんが」と言うのは思想における右や左を蔑視の対象としている人が自らがその蔑視の対象となるのを恐れてのこととも思えます。しかし、「右も左もバカ」的なことを言いたがるのはむしろ「右も左もバカにしているから自分は右でも左でもない」つまり「自分は普通である」と思い込むためのものでもあるのかもしれないと私は思います。右でも左でもないということはバカであることから逃れられることを意味しないことを考えれば、「右も左もバカ」ということに自らがバカとして蔑視されることを避ける効果はありませんから。当然のことですが、バカであるか否かに思想の左右は関係ありません。
このような仮説を挙げることで何が言いたいかといえば、「右でも左でもない人」は、ある意味、歴史修正主義が作り出す偽の構図に嵌っている犠牲者なのではないかということです。
歴史修正主義を仕掛けている側、つまり、歴史学的知識を持ちながらあえて嘘を言っている側*3にしてみれば、人々が歴史学における正誤の正にコミットすることを防ぐことができれば、それで部分的勝利を得られます。
そういう意味では歴史修正主義者は人々に「史実派と歴史修正主義者との対立は思想の左右の問題」と思い込ませることができれば勝ち*4なのです。それだけで、普通の範疇からはみ出ることを恐れる人々、多数派の一人であることから外れることを恐れる人々が歴史学における正誤の正にコミットすることを防ぐことができますから。
「史実派と歴史修正主義者との対立は思想の左右の問題」と思い込んでいる人もそう吹聴する人も歴史修正主義の部分的勝利に貢献しているという意味で(それに自覚的であろうとなかろうと)歴史修正主義の加担者となってしまっているということです。


以上、「右でも左でもない人」は普通の範疇からはみ出ることを恐れるあまり右とか左とかに分類されてしまうことを言わない層というより言えない層であり、それゆえに歴史修正主義が作り出す構図にはまって歴史学における正誤の正にコミットできない人なのではないかという話。←なかなか書き終わらないので強引にまとめた。

*1:「日本軍最強伝説」は歴史修正主義者の捏造宣伝 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

*2:南京事件を知る人にとってこの20万人は難民保護区である安全区の人口でしかなく南京全体の人口でないことはほとんど常識と言っていいものです。

*3:歴史を学問ではなく戦前のような国民に対する思想教育手段として用いたい人々。「国民が誇れる物語としての歴史」なんてことを言っている人々。歴史を「国民が誇れる物語」とするために自国の歴史に汚点があってはならない人々。

*4:その上で「右でも左でもない」という「無難で安全な道」をそれを歩む自分に陶酔できる「困難な道」と思い込ませることができれば、その精神的快楽の虜にすることでその勝利をより盤石にできるのだろうとも思います。