被害者二〇〇万、「ベルリン陥落1945」に見るソ連軍の性暴力(と現代日本)

ドイツ軍当局の最大の誤算は、赤軍の進撃路のアルコールのストックを破棄しなかったことだった。敵が泥酔すれば戦えなくなるだろうという皮算用だったが、女性住民にとって悲劇的なことに、赤軍兵士はまさにアルコールの勢いをかりてレイプし、そのアルコールで悲惨な戦争の終結を祝ったのである。
勝利の祝宴がひと区切りついても、ベルリン市民の恐怖は去らなかった。はめをはずした祝宴の余波で多くのドイツ女性がレイプされた。あるソ連の若い科学者は、恋人となった一八歳のドイツ少女から、五月一日の夜、赤軍将校が拳銃の銃口をむりやり彼女の口に突っこんで、言うなりにさせるため、襲撃のあいだじゅう、そのままにしていたという話を聞かされた。
まもなく女性たちは、夕方の「狩猟時間」のあいだ姿を消すすべを学んだ。若い娘たちは何日もつづけて屋根裏の倉庫に隠れた。母親たちはソ連兵が二日酔いで眠っている早朝をねらって、街路に水くみに出るようにした。ときには、ある母親が自分の娘だけは助けようと必死になって、よその娘たちの隠れ場所を教えることから、最大の危険がせまることもあった。
窓ガラスがすべて吹き飛んでいたので、夜ごとに悲鳴が聞こえてきたのを、ベルリン市民はおぼえている。ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は、九万五〇〇〇ないし一三万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた一〇万の女性のうち、その結果死亡した人が一万前後、その多くは自殺だった。東プロイセン、ポンメルン、シュレージュンでの被害者一四〇万人の死亡率は、ずっと高かったと考えられる。全体ではすくなくとも二〇〇万のドイツ女性がレイプされたと推定され、くり返し被害を受けた人も、過半数とまではいかなくても、かなりの数にのぼるようだ。ウルズラ・フォン・カードルフの友人でソ連のスパイだったシュルツェ=ボイゼンは、二三人もの兵士にたてつづけにレイプされ、のちに病院で縫合手術をうけるはめとなった。

「ベルリン陥落1945」P601-602より脚注を省略して引用。

ベルリン陥落 1945ベルリン陥落 1945

第二次世界大戦時のベルリンにおけるソ連兵の性暴力は本書によらずともよく知られていることです。
本書ではその性暴力の被害がドイツ人女性だけでなくソ連軍に「解放」された地域の人々やドイツの強制収容所から解放された人々にまで及んでいたことが述べられています。それはソ連軍の性暴力が報復によるものだけではなかったことを示しています。
仮に報復だとしても性暴力が正当化されないのは当然として、戦地の女性を性的戦利品として扱い集団的性暴力を仲間の結束を高める具とするような非道な性暴力。その不法な暴力に対してロシア政府が向き合っているかといえば、少なくとも本書の日本での出版時(2004年)には向き合っていません。

戦争と性暴力は不可分の関係にある。本書はすでに世界十数か国で翻訳出版されたが、今回日本で刊行される意義ほ大きい。日本も本書が描く戦時性暴力を繰り返し体験してきたからである。ここでは被害者としてのケースと、加害者としてのケースを一例ずつ挙げよう。
一九四五年八月九日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って旧満州に破竹の勢いで侵攻してきたとき、そこでは本書といくらも違わない光景が繰り広げられた。ちょうど東プロイセンのドイツ人が、長年の圧政に耐えかねたポーランド人に襲われ、さらにソ連軍の過酷な仕打ちにあったように、旧満州の日本人は現地人に襲撃され、ソ連軍の暴行から逃げまどう他なかったのである。現在の「中国残留孤児」が生じるきっかけとなった出来事である。
もうひとつは、日中戦争下の中国における日本軍の性暴力である。なかでも一九三七年一二月、中国の首都南京を陥落させた日本軍中支那方面軍が引き起こした南京大虐殺−捕虜・敗残兵・民間人あわせて十数万人以上の中国人が南京城内外で不法に殺害された−では、多くの中国人女性が日本兵の性暴力の被害にあった。
当時、日本軍占領下の南京に留まったドイツ外交官ゲオルク・ローゼンの報告書によれば、虐殺そのものは数週間で下火になったが、強姦事件は翌年三月ごろまで散発的に続いた。その被害者総数は二万人を数える。集団での強姦、夫や家族の眼前での犯行、指揮官の黙認など、ソ連と日本両軍の行動様式には共通点が多い。(石山勇治編・訳『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』、大月書店)
ドイツの歴史家で、ホロコーストなど自国の負の過去との批判的な取り組みを続けるヴォルフガング・ヴィッパーマン(ベルリン自由大学歴史学教授)は、本書に関連するインタビューに応じて、自分の母も赤軍の性暴力による犠牲者であったことを赤裸々に語り、戦争体験世代の苦しみに耳を傾けて釆なかったことを、自身を含む戦後世代の怠慢と述べた。近年、ドイツの戦争被害体験について、ハンブルクドレスデンなどのドイツ諸都市を廃墟に変えた米英連合軍の絨毯爆撃の不法性を衝き、空襲下の苦悩を描いた在野の歴史家ヨルク・フリードリヒの『火炎−空爆戦下のドイツ 一九四〇−一九四五』(都市部への無差別爆撃はナチ・ドイツが先に始めたことを明記している点には注意)が刊行され、これまでのタブーを破る好著との評判を得た。また作家ギュンター・グラスが戦争末期、ソ連軍に追われた東部のドイツ難民で溢れかえった輸送船がソ連軍の潜水艦に撃沈されるという実際に起きた事件を主題に『蟹の横歩き−ヴィルヘルム・グストルフ号事件』(池内紀訳、集英社)を発表し、ベストセラーとなった。これらの作品はヴィッパーマンのいう戦後世代の怠慢を克服しようとする試みといえよう。
戦争は加害と被害を幾重にも重層化させる。加害者が被害者となり、被害者がまた加害者となる。それは個人のレヴェルでも、国家のレヴェルでも起こりうる。本書は戦争の被害と加害の両面を見つめる読者にさらなる示唆を与えてくれるだろう。
ところで、本書の原書にあたるBerlin The Downfall 1945がロンドンで出版されるに先だって、駐英ロシア大使は、本書を「虚偽と当て擦り」、「ナチズムから世界を救った人びとへの冒涜」とする抗議の文章を『ザ・デイリー・テレグラフ』紙に公表し、大方のメディアの反発を招いた。その数年前、中国系アメリカ人ジャーナリストのアイリス・チャンが南京における日本軍の狼籍ぶりを描いたThe Rape of Nankingが米国で刊行されたさい、駐米日本大使がメディアに不快感を露にしたのと同じ構図だといえよう。ロシア政府は現在も、日本政府と同様、先の世界大戦で斃れた旧軍の将兵を英雄として崇めている。「大祖国戦争」の美名の下で無数の一般市民に及んだ軍の不法な暴力の実態を自らの手で究明する努力はロシアではまだ緒についてはいない。

同書P640-642、石田勇治氏による「解説 スターリングラードからベルリンへ」より脚注を省略して引用。
ソ連軍による性暴力は旧ソ連文書からも確認できる歴史的事実ですが、それを「虚偽と当て擦り」、「ナチズムから世界を救った人びとへの冒涜」として否定するこの姿。まさしく反発を買って当然の姿だと思います。
ソ連軍の性暴力が反共主義をあおる目的でプロパガンダに用いられたことも歴史的事実ですが、プロパガンダに用いられたことはその対象が虚偽であることを意味しません。プロパガンダに用いられようが用いられまいが歴史的事実は歴史的事実なのです。
さて、ここで話は変わりますが、これを読んでいる人の中に「南京事件は中国のプロパガンダで嘘だ」と言うような人や、南京事件を疑う人でソ連軍の性暴力は疑わない人や、日本軍慰安婦の証言を疑う人でソ連軍の性暴力に関する証言は疑わない人や、自国の加害を否定しながら自国の被害は被害感情と報復感情を煽るために消費しつつ現実主義者を自称しているような人はいたりするのでしょうか。
日本には「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがあります。
こういうロシアの姿が反発を買って当然の姿であることがわかる人には、日本が南京事件従軍慰安婦を否定することも同じように反発を買って当然の姿に見えるだろうことが理解できるのではないかと思います。
ソ連軍による性暴力が旧ソ連文書からも確認できる歴史的事実であるように、南京事件や日本軍慰安婦が日本側文書からも確認できる歴史的事実であるということは、これらに関する基本的知識を持っている人には常識的なことです。それらの否定はロシアが「旧満州におけるソ連軍の性暴力は無かった」と言っているようなものです。
THE FACTS」など従軍慰安婦否定論に対する各国の反応や南京事件否定論に対する各国の反応など幾度も繰り返されていることですが、歴史修正主義者は歴史的事実自体より歴史的事実を否定しようとする姿勢自体が反発を買うということを現実から学習すべきだと思います。
歴史修正主義という立場は歴史修正主義が存在してこそのカウンターであり、歴史修正主義者が史実を否定しようとするからこそ、その史実に対して説明する必要が生じ、史実の否定による二次加害に対して為すべきことを述べる必要が生じるのです。
歴史修正主義歴史修正主義が否定しようとする史実に集中的に言及するのは当然のことであり、反歴史修正主義を消す一番の方法は歴史修正主義が消えることです。
史実の否定に対する国際的非難を消すには史実を否定しなければいいのです。史実を否定しようとする情報戦ごっこが自爆となるのは必然なのです。歴史認識問題をめぐる日本の現状は情報戦に負けた結果ではなく、「真実」として自己慰撫のための嘘歴史を主張した結果というのが現実なのです。