歴史の教訓とすべき人類史の悲劇が大袈裟な罵倒と解釈されてしまう件

ナチスの思想である民族社会主義がどういう思想であったかを非常に大雑把に述べると、それは「ドイツ民族、それも優秀なドイツ民族の繁栄」を世界のための崇高な目的とし人道性より優先する思想でした。
そして、その思想に基づいての合理的判断による人権侵害は同民族にまで及び、精神障害者知的障害者は排除対象とされました。
そのように「ドイツ民族の繁栄」を人道性より優先した結果、下記引用文のようなことがなされたのです。

ユダヤ人に関する措置

ポーランドに進駐した特別出動部隊に対する一九三九年九月二一日付のハイドリヒの速達は、占領地域のユダヤ人に関して「計画している全措置、したがって最終目標を極秘にする」としていた。最終目標のために「まずやるべきこと」は、田舎から比較的大きな都市へのユダヤ人の集中であった。
ずべてのユダヤ人共同体に長老評議会を作らせ、移住に関し「全責任」をとらせて、移住命令に従わない者は「厳罰に処す」ことにした。ワルシャワなど大きな都市は戦火を逃れて流人した人びとで膨れ上がり、町はドイツ軍の爆撃で破壊されていたので、住宅不足は深刻だった。集められたユダヤ人は狭い一街区(ゲットー)にすし詰めにされた。
ヒトラー・ナチ国家にとって、一番重要なことは帝国領土の拡張とその領土の民族的強化であった。したがって第一次大戦後に成立したポーランド共和国領土のうち回廊を含む広大な地域(ヴェルサイユ条約でドイツが失った部分だけではなく、一八七一年のドイツ帝国創設時の領土以外の広い地域)をドイツに併合した。次いで戦時下においてさえ、ただちにこの併合地域の「非ポーランド化」を推進した。
この地域にドイツ人を入植させ、また東欧の民族ドイツ人(フォルクスドイッチェ)を連れてきて、ドイツ系人口を増やすことを計画したのである。この仕事は、ドイツ民族強化全権ヒムラーの任務であった。短期間のうちに、バルト地域のドイツ人六万人を併合地域に入植させた。過渡的に必要な居住空間を作ることもあって、一九三九年一〇月から四〇年春までに、親衛隊の二つの部隊がダンツィヒ、シュテッティンなどの精神病施設にいた一万人以上の患者を殺した。
しかし、併合地域の「体系的なドイツ化」を進めても、たくさんのポーランド人はもとより、マイノリティのユダヤ人でさえ根こそぎ総督府に送り込むことはできなかった。総督府も手一杯だった。
一九四〇年五月に火蓋を切った西部戦線でドイツ軍が電撃的勝利を得たことは、この強制移住問題と戦時下の過剰人口の解決策を提供するかに見えた。ポーランドユダヤ人を中心とする約三五〇万人のユダヤ人を、フランス植民地マダガスカル島に送り込む計画が浮上したのである。しかし、このマダガスカル計画は英仏の抗戦継続によって机上プランにとどまった。
電撃戦戦略が挫折し、戦争が長期化すると、ドイツの戦時経済は一段と厳しいものとなった。打開策として一九四一年六月に開始した対ソ攻撃も、電撃的にソ連領土を蹂躙するというヒトラーの構想どおりには展開せず、かえってナポレオンの敗北を予感させる「冬の危機」、第三帝国最初の電撃的大敗退を迎えることになった。

ユダヤ人絶滅政策」

一九四一年七月中旬、併合地域ヴァルテガウでガス殺による絶滅政策の原案のようなものが作られ、アイヒマンに提出された。それは、併合地域の親衛隊保安部長(ポーゼン)のヘプナーが各方面と「さまざまな議論」をしてまとめ上げたものだった。
それによれば、ヴァルテガウの全ユダヤ人を三〇万人収容できるバラック建ての収容所に入れる。そのうち労働可能な者は労働部隊にまとめて収容所から引き抜く。これなら、従来よりはるかに「少ない警察力で」監視できる。しかも、リッツマンシュタット(ウージ)や他の収容所でくり返し発生している「伝染病の危険も最小限に」喰い止めることができる。
一九四一年の冬、ユダヤ人を「もはや全部は」養えなくなる可能性がある。労働投入できないようなユダヤ人を、「何らかのほかの速やかに効く手段で片づけるのがもっとも人間的な解決ではないか、真剣に考えてみるべきである」とヘプナーは提案する。
いずれにしろ、「餓死させるよりは、このほうが好ましいのではなかろうか」という。
ポーランド地域の窮状は、すでに対ソ攻撃開始直後でさえ相当深刻になっていたわけである。
一九四一年の晩夏ないし秋以降にユダヤ人移住政策は、その絶滅政策に移行した。一九四一年一ニ月から、ヴァルテガウのクルムホーフ(ポーランド表記ヘウムノ)を起点に、併合地域と総督府ユダヤ人の絶滅政策(ホロコースト)が始まった。ヘウムノではガス自動車の排気ガスにより殺害した。
翌年一月二〇目のヴァンゼー会議を経て三月、ベウジェッツで総督府ユダヤ人絶滅政策が本格化した。アウシュヴィッツで一九四二年春から、最初は小規模にもガス殺が実行される。ヴァンゼー会議で総督府次官ビューラーは、ユダヤ人問題の「最終解決」(エントレーズング)をまず総督府から始めるよう求めた。
その際、問題となるのは「約二五〇万人」であり、「そのほとんどは労働不能」であった。「労働不能」な者はドイツの戦時経済にとって厄介者であり、多くのユダヤ人が飢餓状態で食糧消費はミニマムでしかなかったとしても、ドイツの利害からすれば彼らは「大食漢」であった。

ポーランド電撃戦 (欧州戦史シリーズ (Vol.1))P149-150より。強調は引用者による。

ナチスがどうしてホロコーストと称されるユダヤ人虐殺に至ったかといえば、それはリソース不足による問題を合理的に解決するためです。
虐殺自体は目的ではありませんでした。それはマダガスカル計画からも明らかでしょう。ドイツ民族の居住空間不足というリソース問題を解決するための方法の一つは国外への「過剰人口」の強制移住でも良かったのです。
居住空間不足に人的資源不足に食料資源不足。戦争が長期化する内に各種資源の不足がより深刻になってゆき、そういうリソース不足を解決するための合理的な方法として虐殺に至ったのです。
居住空間が不足し人的資源が不足する中で少ない警察力でユダヤ人を監視できるようにするために行われたのが収容所送りと収容所の規模拡大と経営の効率化。
食糧資源が不足する中でドイツ民族にとって食料資源を浪費するだけで役に立たない厄介者である「労働不能」な者に対して「餓死させるよりは人間的」な解決方法として行われたのが虐殺。
全員を生かすことはできない資源不足の中で、その合理的な解決方法として生かすものと死なすものの選別が行われたのです。
これをなんと言えばいいのでしょう。「地獄への道は合理性で舗装されている」とでも言えばいいのでしょうか。
勿論、これは皮肉で合理性自体に問題があるわけではありません。「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉において善意自体に問題があるわけではないように。
合理性自体は有効です。
例えば極限状況下での救急救命のためのトリアージ。これも合理性に基づいて定められた判断基準でなす生かすものと死なすものの選別に他なりませんが、その選別によってより多くの人命が助かるのです。
では、生かすものと死なすものの選別という点において同様なホロコーストトリアージを分かつものは何でしょうか。
それは人道性。
トリアージの目的が最大多数の人命を助けることであり人道に適っているのに対し、ホロコーストは「ドイツ民族の繁栄」というナチスにとって崇高な目的を人道より優先したのです。
繰り返しになりますが、合理性自体は有効です。有効ですが、それには人道に背かない限りという条件を付けなければならないのです。
その条件を外した合理性に基づいた判断基準の行き着く先は合理性に基づいて非人道的な行為が正当化される世界なのです。
ナチスホロコーストはそういう人道に背かない限りという条件を外した合理性の延長線上に何があるかということを示す歴史の教訓なのです。
しかしながら、ナチスホロコーストという言葉を文脈的にきちんと歴史の教訓として持ち出しても大袈裟な罵倒と解釈されてしまいがちなのは、そういう目的で安易に使う人が多いからとはいえ、悲しいことです。*1


何が批判されていたのか - 模型とかキャラ弁とか歴史とかに続く。

何が批判されていたのか

歴史の教訓とすべき人類史の悲劇が大袈裟な罵倒と解釈されてしまう件 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかの続き。


では、ここではてなで始まった福祉と経営とトリアージホロコーストを巡る論争で福耳先生(id:fuku33)は何を批判されていたのかを復習してみましょう。
件の記事に福耳先生が何を書いたかを考えれば明らかだと思うのですが、批判されているのはトリアージ自体でも経営学自体でもありません。
救命という人道を目的としたトリアージを題材としながらリソース不足で切り捨てられる人に対する人道性の発露である「かわいそう」という反応をとことん罵倒し「この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまう」原因が(その厳しい労働条件にではなく)「全体最適というコンセプト自体が頭の中にない」ことにあると判断する(ドラッカー的な意味での経営学の自殺である)福耳経営学なんですね。
http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20080525/1211664691
もちろん、極限状況下での救急救命のためのトリアージではリソース不足のために切り捨てざるをえない人がいるわけですが、リソース不足で切り捨てられる人がいることと切り捨てられる人を「かわいそう」と思うことは別に矛盾しないわけで、福耳先生が消し去ろうとした言葉のように罵倒される筋合いはないわけです。
この件に関しては福耳先生自身が大いに反省し釈明行脚を行ったので、もう終わったことです。
私は腹黒いので、時折見かける福耳先生のブックマークやスターの傾向を見ると「あの釈明は口先だけの奇麗事で本当にそう思っているわけではないのではないか」なんて思ってしまうのですが、多分、気のせいでしょう。
福耳先生におかれましては、そういう、もう終わった話が今頃になっても持ち出されるのはお気の毒なことだと思います。
で、今残っている問題はそういうトリアージの不適切使用に対する批判にホロコーストを持ち出すのが妥当かどうかということです。
これに関してHALTAN氏を中心に妥当ではないと批判されているわけですね。
私は救急救命のためという条件を外して全体最適のためにトリアージを目的外使用することへの批判にホロコーストを持ち出すことは、ホロコーストもまたリソース不足の解決方法だったことを考えれば妥当と思うのですが、HALTAN氏はそうではない様子。
ただ、これはホロコーストに関する前提知識が共有されていないことと、「意図するところ」と「意味するところ」の区別がなされていないことが大きいためと思います。
HALTAN氏のホロコーストに対する認識といえば、

ただホロコーストについて言えば、「優生学はなぜ否定されねばならないのか?」という問題でしょうし、全体主義については、「そうは言っても、言論人やジャーナリズムも大衆も(少なくともある時点では)熱狂したんだからどうしようもないでしょ?」問題になるんじゃないですかね?基本的には別筋だと思うんですが。

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20080525/p1

というようなものなわけで、ホロコーストもまたトリアージと同じくリソース不足の解決方法だったという認識はないようなんですね。それは、こういう認識ではホロコーストを持ち出した意図は理解できないと思います。
まあ、今の問題はそういうことを多くの人から説明されても理解することを拒否していることなんですが。
あとは、あれですね。ナチスホロコーストという言葉は、相手をナチスのような意図をもっている人とレッテル貼りするために用いられているのではなく、そういう風にトリアージの制約を外してリソース不足の解決方法として目的外使用することが意味するところはリソース不足の解決において「ドイツ民族の繁栄」を人道より優先したナチスと同じになってしまいますよ、ということなんですね。
まあ、コミュニケーションにおいて誤解が発生するのは仕方がない面があるわけですが、理解することを拒否することは心の持ちようで避けられるのではと思います。