見下し病

http://fragments.g.hatena.ne.jp/Tez/20061025/p2を見ての思いつき。
見下し病は優越感を満たしたいという本能的欲求に基づいた自己中心的行動の暗喩。自戒も込めて記事化。
安直な発想なので先に考えてる人がいそうだなと思って検索してみたら案の定。それどころかその先を行っている人までいました。
http://blog.drecom.jp/akky0909/archive/746
「そんなことも知らないのかよ病」、それです、それ。自分も危ないなあと思っているビョーキ。特に歴史修正主義関連。なんかコテコテの歴史修正主義のサイトを見ると実はわざとネタとしてやっているのではないかと思ったり。
さておき、優越感を満たしたいという欲求はかなり本能的なものといっていいでしょう。配偶する異性を選択できるような生物社会においては、異性に自らの優越性を示せない個体は子孫を残せる確率が低下してしまうからです。優越性を示せない個体は異性に選択されにくいですから。*1
ただ、優越性を示すには本当に優秀である必要はありません。格好だけでも取り繕い、それで異性を惹きつけられれば、それで十分。
それゆえ見かけの優越性を必死に誇張しようとするオスもいます。そういう見かけの優越性にころりと騙されてしまうメスもいますから。ああ、孔雀社会。*2
見下し病の滑稽なところは、優越性を示す行動の動機付けとなる優越感を満たしたいという欲求だけが一人歩きして、なんら自らの優越性の獲得に貢献していない行動をするところ。病と喩える所以です。
まあ、単に優越感を満たしたいだけなら、上を目指して努力するより、下を作って蔑む方が遥かに容易ですから、それはそれで理に適っているといえるでしょう。
以降、人間には優越感を満たしたいという本能的欲求があるという仮定を真とした上で話を進めます。

いじめと見下し病(本筋とは関係ない話)

全てのいじめがそうであるわけではありませんが、いじめも見下し病の症例の一つと私は考えます。
いじめは人間社会特有の現象ではありません。社会的行動をする動物にしばしば見られる現象です。猿社会にもいじめはあります。そして、人間は生物学的には少々頭のいい猿に過ぎません。
動物社会にも共通して見られる問題である以上、いじめ問題の解決は人間の本能面からもアプローチする方が科学的でしょう。
いじめを情緒的に戦後教育の問題と批判し教育改革の口実にすることには違和感を感じます。
確かに教育には効果があるでしょう。例えば、優越感に対する欲求を他者を蹴落とす方向ではなく向上心に転化するような教育はいじめの低減に効果を期待できると思います。
しかし、それは「戦後教育に原因がある問題を教育改革で解決する」ではなく「人間という動物の抱える問題(人間に原因がある問題)を教育により解決する」というものでしょう。そして、そういうことは戦前の教育でもできていたわけではありません。*3
あと、何かと競争原理の導入が叫ばれますが、学校のような閉鎖的な集団内での下手な競争原理の導入は他者を蹴落とす方向に向かいやすいのではないかと危惧します。競争原理の導入は有効な手段ですが万能ではなく、拙い方法で導入すると逆効果となりかねません。*4

分断統治と見下し病

見下し病は本能的欲求に基づいたものですから(仮)多くの人に潜伏しています。
それを利用して人々を分断し互いに見下しあうように仕向ければ、人々は協調できなくなり、集団として大きな力を発揮できなくなります。
例としては江戸時代のエタと非人とか。両者とも社会の底辺として差別される階級なのですが、両者は相互の待遇の差を見下しあい蔑みあい憎しみあい、そのため自分達を社会の底辺としている権力機構に協力して対抗することができませんでした。
差別や憎しみにより人々を分断することは人々が共通の目的のために集団として行動することを阻害し、それは人々が共通の利益のために集団として権力に刃向かうことを阻害するわけで、権力機構にとっては有効な統治の手段なわけです。
江戸幕府は巧妙に構築された階級社会によっても維持されていた権力機構だったというお話。
まあ、わざわざ階級社会を構築しなくても人間は相互に見下しあう集団を作る生き物のようですが。オタクとDQNとか、モテと非モテとか、サヨクとウヨクとか。他はともかくオタクとDQNなんて対立する概念の属性ではなく、双方の生活圏に接点も少なく、わざわざ積極的に見下しあう必要も無いというのに。

ダマサレと見下し病

以前紹介した「わら人形論法」にはしばしば見下し病も伴います。というより、ダマシは「見下す相手」を「わら人形」として与えることでダマサレを誘導している節もあります。
見下し病はダマシにとって二重に役立ちます。一つ目はダマサレに渡す優越感という報酬は無料ということ。二つ目はそうやってダマサレが獲得した優越感自体がダマサレが騙されたことを認めることを阻害すること。
ダマシにより「真実」を知ったダマサレは自らが「先知先覚者」であることに優越感を感じ、未だ「真実」を知りえぬ「わら人形」を見下すことで優越感を得ることができます。ダマサレはダマシが与えてくれる優越感(使命感でもいいですが)という報酬のためにダマシに従い、ダマシがその報酬を支払うには言葉だけで十分。つまり「言葉だけならタダ」という意味では無料。
そして、ダマサレはダマシから優越感という報酬を受け取っていればいるほど騙されたことを認めにくくなります。騙されたことを認めることはそうやって築き上げた優越感の崩壊を意味し、自らが騙された愚か者と認めることだからです。*5優越感を動機としていればいるほど騙されたことを認める際の心理的ダメージは大きいでしょう。ゆえに、ダマサレが騙されたことを示す事実に触れても、心理的ダメージを避けるために騙されたことを認めようとしなかったり、騙されたことを理解しても(周囲の人に愚か者と思われるのを恐れて)それを被害として公表しようとしなかったりという行動を取ることは十分に考えられます。「騙され続けている人々」を見下し馬鹿にして優越感にひたるような人ほど騙されたことを馬鹿にされることを恐れるでしょうし。*6

ダマシは人の心理的弱点を突く

人間の中には自らの誤りを認めることができなかったり、自らが知らないことを知らないと言えない人がいます。
傍から見れば本人の能力や人格が見透かされるこのような薄っぺらな行為も、本人にとっては自らの虚栄心を守るために重要なことだったりします。
ダマシはそういう人間の心の弱点を突いてきます。
歴史修正主義の宣伝の定型句の多くは荒唐無稽なものです。しかし、誰にでも分かるような単純で分かりやすい理屈で構成されています。そこに歴史修正主義がある種の人を惹きつける魅力の一つがあります。
歴史修正主義に騙された人は歴史修正主義の定型句を受け売りするだけで、真面目に歴史研究している人を「嘘吐き」や「そんな簡単なことも分からない無能」と蔑み虚栄心を満たすことができるのです。*7
ダマシの側から見れば、そのようにして歴史修正主義に騙される人は虚栄心を満たすために望んで騙されてくれ、おまけに対抗言論に遭遇しても虚栄心を護るために自ら望んで騙され続けてくれるというわけ。人に何かをやらせたい場合は、人が自ら望んでそれをするように仕向けるのが上策なわけで、ある意味、基本通りの人心操作です。
否定論を展開する人の中に*8、自らの誤りを認めることができなかったり、自らが知らないことを知らないと言えない人をしばしば見かける*9のは、否定論には歴史修正主義の定型句に騙されてしまうような無知で懐疑心未熟で虚栄心旺盛な人間が集まってしまうからではないかと私は考えています。

歴史修正主義を否定するのは当然のこと

否定論の嫌らしいところは、否定論に対する批判に対して「言論の自由」を盾にごねること。あたかも自分達が抹殺されかねない被害者ぶるところ。
否定論は多くの研究者や証言者を嘘吐き呼ばわりすることに他なりません。Apeman氏がカジュアル否定論 - Apes! Not Monkeys! はてな別館で述べているように。
それは名誉毀損であり信用毀損です。言論の自由名誉毀損の自由や信用毀損の自由ではありません。
自らの「言論の自由」を声高に叫び被害者ぶる一方で、研究者や証言者に対する誹謗中傷を平気で行なう精神性はモラルの面から見れば低劣なものです。それでいて自国のモラルに貢献しているつもりに見えたりするのがなんともはや。

見下し病は理性で克服できる病

見下し病は本人の優越感を幾分満たすことで多少なりとも本人の精神衛生に良いところはあるかもしれません。しかし、それで本人の能力が向上するわけでもなく、本人以外に役立つわけでもありません。*10それは自己満足にすぎません。
見下し病による見下しあいが高じて足を引っぱりあえば、集団内での位置が上がることは望めても集団全体の成績は低下するでしょう。
他人を見下すことにより得た優越感は空虚で、むしろそれを失うことを恐れる感情が本人の行動を縛るでしょう。
そのように考えれば、他人を見下すことに執心することは馬鹿げていることが分かりますし、上を目指して努力する方が建設的という計算もできます。*11
見下し病は安易な感情の発露。人間はそういう感情を克服できる生き物の筈です。

余談「そんなことも知らないのかよ病」の問題

冒頭に述べましたが、私自身が危ないなあと思っているビョーキ、「そんなことも知らないのかよ病」
私は歴史修正主義を批判しているわけですが*12歴史修正主義を(受け売りで)展開している人の基本的知識の欠如ぶりに内心わくわくしているかもしれないという自覚があります。*13これは良いことではありません。
「そんなことも知らないのかよ」「ネタでしょ?」的感情は自己満足なだけでなく、その感情に基づいた態度により相手の態度が反感のためにかえって硬直しかねないからです。
私がダマシダマサレ論を展開しているのも、人間の理性を信じ、情緒に訴えかける宣伝の手法自体を無効化するのが望みだからというもので、かえって相手の情緒的反応を引き起こしかねない「そんなことも知らないのかよ病」は望ましいものではありません。
そんなわけでより一層の自戒が必要と思った次第。しかしながら、あんまりネタ臭いのに対しては真面目に対応するのが難しい予感。

*1:稀に駄目な方を好む個体がいるとはいえ

*2:異説あり。クジャク メスのオス選び 飾り羽でなく鳴き声がポイント - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

*3:復古的教育改革がしたい「保守派」の人への揶揄

*4:そういえば校内暴力が急増している地域はむしろ「保守派」が教育を牛耳っている地域のような気が…

*5:もっともダマシが巧妙な場合、社会心理学や科学哲学で心に防壁を張っていない人は対抗しようがない場合が多いので一概に愚か者とはいえません。ただし、それと本人が自分を愚か者と認識するかどうかは別です。

*6:それゆえにダマシによる悪徳商法の被害には届け出が無いものも多いと思います。

*7:そういう単純で分かりやすい理屈を研究者が分かっていないと思い込めるところは、ある意味凄いと思います。

*8:トンデモ全般に言えることだと思いますが

*9:たまたま、私がそういう人を見かけるだけかもしれませんが

*10:せいぜい「同病相憐れむ」程度の共同体が構築できるくらい。

*11:自称中道な人は「上を目指している」と言いつつ下として蔑む対象ばかり探しているように見えますが

*12:そもそも、社会科学としての歴史を自虐史観として攻撃し、歴史を思想教育手段として改変しようという人々が異常に見えます

*13:私が腹黒くて人間の暗黒面を見るのを楽しみとしているからだと思います。