居はしないのさ そんな人

以下のブックマークコメントを読んで思ったこと。

2007年06月30日 kiya2014 「経済弱者の問題解決が多数派に成りえないのは、当の経済弱者な人の多くが問題解決に与しないから」 それ結局保守のよくやる自己責任論じゃん。はて、ホンモノの左翼ってどこにいるんだ?

はてなブックマーク - 自分は越える気も無いハードルを他人に押しつける人 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

「わーい、漢字で左翼認定されたよ!」ということは置いといて。

そもそも自己責任論ではなく現状認識

というか、民主主義国家の国家意思は基本的に(相互の妥協によって成立する)多数派が構築する(ことになっている)というのに、その責任を少数派でしかない「既存左翼」に被せ責めたてるという行為自体が私にしてみればナンセンス。経済弱者の問題解決を図る動き自体が成らないのは、それを望むのが(本音としてはともかく投票結果としても運動としても)少数派だからというもの。
そして、経済弱者の問題解決が多数派に成りえないのは、当の経済弱者な人の多くが問題解決に与しないからというものでしょうに。

自分は越える気も無いハードルを他人に押しつける人 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

「民主主義国家において経済弱者が多い」のにかかわらず「経済弱者の問題解決を図る動き自体が成らない」理由は「当の経済弱者な人の多くが問題解決に与しないから」
今おかれている状況を示す現状認識であって自己責任論ではありませんね。

それが自己責任でなくて何が自己責任なの?

「保守のよくやる自己責任論」の何が問題かといえば、実質的に選択肢を奪っておいて、選択した結果に対する責任を負わせているところ。
例えば、過重労働しなければ暮らしていけない状況に人を追い込んでおいて過重労働の結果の過労死や労働災害を自己責任というような理不尽が問題なわけです。
対して、経済弱者な人が経済弱者の問題解決を図る動きに与しないというのは、そういう風に選択肢を奪われた結果でしょうか?違いますね。自らそういう選択肢を捨てた結果でしょう。
実質的に選択肢を奪われて追い込まれているわけではなく、自由な選択肢があるわけで、その選択肢を取捨した結果が自己責任でなければ何が自己責任というのでしょうか。
選択肢は今でもあるわけで、少しでも経済弱者の問題解決を図る動きを多数派にしたいのであれば、今からでも経済弱者の問題解決を図る方につくことです。

どこまで甘ったれているのですか?

「ホンモノの左翼」って何ですか?
文脈から察するに「自己責任論」とかとやかく言わずに経済弱者を救ってくれる人をさしているのでしょうか?
だとすれば無理ですね。
数的に問題を解決する力を持たない以上、救えるわけがありません。それを救うというのは自動的に「できもしないことを語る」ことになるわけです。
民主主義国家における主権者である人々が自己破滅的な選択を行なえば基本的に破滅に向かって進むことになるのは当然のこと。
誰かがその選択に対する責任を代わりにかぶって人々を救済するなんてことは、望みとしてはありえても実現は無理。
主権者であるということは、現状に対する責任がある当事者でもあるということ。
当事者であるにかかわらず、当事者であることの責任を放棄し、それでいて無理な要求を他者におしつけるというのはどうしようもない甘ったれというものです。
そういう風に甘ったれて生きるのも自由と思いますがね。

無理なものは無理

誰もが人並みの生活ができる社会は私の理想です。可能ならば貧困を撲滅したいものです。人が自らの選択の結果、不幸な状況に陥ったとしても、その不幸な状況から救われて欲しいと思います。留保の無い生の肯定を!
しかし無理。「力なき正義は無力」という当たり前の理屈で。(正義なんておこがましいですが)
できないものはできないのです。民主主義国家において数的に力を持たないということはそういうことです。
そして、そうなっているのは人々の選択の結果。
まあ、選択肢は色々あるわけで、今からでもその中から自由に選択すればいいと思いますよ。
どんなに保守の政策に国民生活が破壊されようと左翼を攻撃する自分を肯定するために左翼を支持しない理由探しをするのも自由。自らの暮らしに直結する問題の解決を図る方に与するより、自らの差別感情に身を任せた言動を行なうのも自由。id:kiya2014さんを含む人々が経済弱者の問題解決を図る動きに与しないのも自由。既存の運動に見切りをつけて自ら経済弱者の問題解決を図る動きを起こすのも自由。自ら「ホンモノの左翼」になるのも自由。自らは何もせず他人の為すことに文句をつけるだけというのは楽ですから、そういう楽な人生を送るのも自由。
そうして自由に選択した結果、なるようになるだけのことです。
政治は選挙民の選択の結果(ということになってます)。選挙民の選択の結果、この世が地獄と化すとしても私には責任を引き受けることはできませんが、選挙民の一人として連帯責任で地獄にお付き合いすることはできますよ。