糾弾しているのは誰か。宥めるべきなのは誰か。

排外主義・歴史修正主義と反震災がれき受け入れ・反「食べて応援」には大きな差異があります。これらを運動において同じとみなすのはあまりにも見方が皮相すぎると思います。
単純に表現すれば排外主義・歴史修正主義は加害者の逆ギレであり、反震災がれき受け入れ・反「食べて応援」は被害者の不信です。
日本における排外主義は旧併合地域の人々を二等国民・三等国民と蔑視し迫害した歴史の延長の上で「悪いのはあいつらだ」と言っているのであり、歴史修正主義大日本帝国による加害の歴史に対して「そんなに悪いことはしていない」と逆上しているのです。
対して、反震災がれき受け入れ・反「食べて応援」は原発事故による広域放射能汚染という加害の上でその加害の当事者に対する不信の結果としておきているものです。
原発事故による広域放射能汚染は福島第一20Km圏の要救助者を見殺しにさせ、その地域から避難せざるをえなくなった人々の住居を奪い、生活を破壊し、また避難過程においても犠牲者を出しました。
震災がれきを「被曝がれき」として忌避されるようにしたのも、一時的に一部地域の農産物・水産物などから国の基準を越える放射性物質が検出されるようになったのも原発事故の結果です。
それらに対して第一に責任があるのは行政と東電であり、第二に責任があるのは原発推進に加担した人々です。傍観した人々・反対したが防げなかった人々に責任が無いとは言いませんが、その責任はこの第一の集団と第二の集団と比べれば軽微なものです。
私自身は「食べて応援」している人間ですし、震災がれき広域処理も被災地のことを考えればやむをえないことだろうと考えていた人間ですが、反震災がれき受け入れ・反「食べて応援」な人々の心情も理解できなくもないと思います。この国の公害病の歴史や震災後の行政や東電の情報公開や調査のあり方を考えれば行政や東電やそれらに与する人々を信用できないと考えることにも妥当性はあると考えるからです。ゆえに私は反震災がれき受け入れ・反「食べて応援」のみをもって彼らを非難する気持ちにはなれません。むしろ、反震災がれき受け入れ・反「食べて応援」に対する原発推進側の人々による糾弾の方が加害者の逆ギレの方に類する行為に見えます。
そして、震災がれき広域処理に関して言えば、
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2013021102000132.html
という東京新聞の記事を見る限り、その必要性が低かったことが明らかになったわけで、行政の言い分を信じて震災がれき広域処理の必要性を認めていた私の方が間違っていたのであり、その必要性を否定していた人々の方が正しかったのです。これは行政側の主張を信じた人々の方がまた行政の宣伝に騙された事例であり、行政側の主張を信頼できないものとする上での事例として扱われても文句を言えないものでしょう。行政側の悪意の有無に関係なく。
「食べて応援」にしても「絆」という言葉による同調圧力でそれをさせようとするのは最悪だと私は思います。私は「絆」のために「食べて応援」をしているわけではありません*1し、それに反発する人々を人非人とも思いません。私にしてみれば「絆」という言葉を同調圧力として用いる人々の方が不気味です。

納得していただけるように努力すべきなのは誰か。

排外主義・歴史修正主義と反震災がれき受け入れ・反「食べて応援」は説明責任の所在においても非対称です。
歴史修正主義者の方がしばしば「俺たちを納得させてみろ」とふんぞり返っているので勘違いしそうになりますが、歴史修正主義で言えば歴史学における通説や国際社会の理解に反する南京事件否定論従軍慰安婦否定論の方が国際社会に対して納得していただけるように努力すべき立場であり、そして、そもそも歴史学に対する無理解と人権感覚の無さの上に成り立っているそれらは努力すればするほど墓穴を掘る主張でしかありません。排外主義についてはそもそも納得していただける余地などありません。
対して震災がれき受け入れや「食べて応援」については、それらに反対する住民に対して納得していただけるように努力すべきなのはそれらをなそうとする行政側です。
頭を下げてお願いすべきなのも処理において問題があったときに謝罪すべきなのも行政側の人々であり、震災被害者の人々ではあってはならない筈です。
震災がれき受け入れや「食べて応援」に対する反対運動はそもそも原発事故による広域放射能汚染がなければなかったものです。つまり反対運動の原因を作ったのは原発です。ならば、反対運動に対して納得していただけるように努力するのも原発を運用する上でのコストの一部だというものでしょう。
反対住民の不信もまた原発運用のコストであり、反対住民の不信に対し「正しく恐れよ」と言うなら正しく恐れるための教育を義務教育として行い、その教育のコストも原発運用のコストとして計上すべきだったのです。
行政手続き的にも筋的にも反対住民は糾弾の対象ではなく行政側とそれを支持する人々が納得していただけるように努力すべき対象の筈です。
しかし、現実には反対住民は糾弾の対象とされています。
そういう光景を見ると私は「糾弾する左翼より宥める左翼」という言葉を思い起こします。
この国では反歴史修正主義や反排外主義はサヨク認定の上で歴史修正主義や排外主義に対する非難は「糾弾する左翼」として扱われ、「糾弾する左翼より宥める左翼」と貶められたりします。そして、そう言う側やそれに同意する側が「宥める」を実践してみせている光景を今のところ私は見たことがありません。
むしろ、反震災がれき受け入れや反「食べて応援」に対して人々が見せたのは「糾弾する左翼」も話にならない程の糾弾する姿だったと思います。
このような光景に対し、私は「話が違うのではないですか」と思わざるをえません。
今こそ「糾弾する左翼より宥める左翼」という言葉に首肯していた向きの人々が「宥める」の実践をしてみせるべきときなのだと私は思います。
問題における非対称性を考えれば反対住民の方が「宥める」の対象であるべきことは歴史修正主義者や排外主義者を「宥める」の対象とすることより遥かに正当性があることな筈です。
加害者の逆ギレは宥めるべきで、被害者の不信は糾弾されるべきというのなら、それはあべこべだと私は思います。


以上、
http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20130209
への反応に対して思ったこと。

*1:むしろ、「絆」なんていう理由はいりません。「絆」が無ければ「食べて応援」もしなくていいのですか?