メッセージが届かない人−「ホテル・ルワンダ」
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225
町山氏の記事を読んで軽く絶望。以下、大雑把な流れ。
「ホテル・ルワンダ」を見た嫌韓な人が町山氏のパンフ記事を批判
↓
町山氏の親切丁寧適切な反論
↓
嫌韓な人は反論を受け入れずビリーバー型自閉モードに
私が絶望したのは世の中には言葉の届かない人がいるという現実。少なくとも対話が成立すれば誤解などに基づいた対立があっても相互理解の可能性はありますが、ここまでの拒否を示されると、ある種の人には対話自体が成立しないということを思い知らされますから。
この人も生まれたときからこういう人ではなかったでしょうに。行くところまで行ってこうなる前に、もし、後戻りできるような言説に出会っていたら…
行くところまで行ってしまった人は仕方ないにしても、行きかけている人を引き戻す類の言説の必要性を感じます。いや、そういう言説自体は存在しますから(件の町山氏の記事もそう)、むしろそういう言説に出会う機会を増やす必要性でしょうか。
コメント記録
http://www.doblog.com/weblog/myblog/7844/2344875#2344875
この件をmasterlow氏も扱っていたのでコメントしてきました。
[Amon] [2006/02/26 10:40] [URL]
こんにちは。
典型的なビリーバーの反応でしたね。
信じたくないものは信じない。信じない理由を探すために、情報の信じる基準のハードルをどんどん上げていく。それも非現実的なくらいに。
既に後戻りできないビリーバー。
確信犯や愉快犯に扇動されやすい、ある意味「純情」な人。
ああいう人々が漫画デビルマンの終盤の大衆のように差別と偏見で「悪魔人間」を虐殺するのでしょうね。牧村家の人々を虐殺したように。
ビリーバーが信じたくない情報に対し信じる基準をどんどん引き上げていく様は滑稽かつ悲しいものです。
こういう人を説得することは不可能な気もしますが、何かしらこういう人にも届く言葉はないものでしょうか。
追記2006/02/27
追加コメント。
人はその生まれを選択することはできませんが、その行動は選択できます。あの映画でも示されたように。
あの映画を見ても、生まれという人が選択できない条件での差別をやめられなかったからこそ彼女は批判されるのです。
人をその行動により評価ないし批判することは、人種だの民族だの出身国籍だのといった本人にはどうしようもない条件で差別することとは異なります。
ビリーバーをやめるのは簡単。ただ人の言葉にまともに耳を傾ければいい。しかし、彼女はそれを頭から拒否したのです。
彼女を馬鹿にしているというのは的外れでしょう。人は皆馬鹿なものです。誰しも全知全能ではないのですから。各々がその馬鹿さを自覚しているかの方が問題というもので、それを指すのが「無知の知」という言葉。
しかし、彼女は開き直って「無知の知」とは反対の行動を取りました。その行動が批判の火に油を注ぐのは仕方ないというものでしょう。批判する方にしても理性的でない批判や悪罵はいけないですが。
駄目だ…。書いてて自己嫌悪。