寝た子をおこすな論法

某所*1でこんなコメントをしました。

社会心理学を利用した技術は販売手法や政治宣伝などに既に当たり前に使われているので、自衛のために自らも身につけたほうが良いという話なのに、「騙す方に利用されかねない」という理由でこういう本を書いたり宣伝したりすること自体を批判したり揶揄したりする人がいたりするのはどういうものだろうと思います。
まあ、自衛のための知識を広めようとする人に対してのありふれた反応ではあるわけですが。
「犯罪の手口を公開すると模倣犯があらわれる」とかなんとか。で、そういう人は既にそういう犯罪がありふれているために模倣犯があらわれるリスクより自衛のための知識を広めるメリットの方が大きいことを無視するわけです。

世の中には自衛のための知識の流布を批判したり揶揄したりする人がいます。自衛のための知識は自衛を必要とする望ましくない対象に関する情報や対象の用いる方法を含んでいるわけで、そういう知識の流布自体が模倣を生みかねないからです。
ある種の犯罪から身を守る方法は当然のことながらその犯罪の手口を含んでいるわけで、その知識を得た人間が模倣犯にならないとは限りません。そういう意味では自衛のための知識の流布には模倣犯があらわれるリスクがあります。自衛のための知識の流布にはそれにより守られる人がいるメリットと望ましくない事象の模倣がなされるデメリットがあるわけです。
ゆえにこういう自衛のための知識の流布の実施はメリットとデメリットを比較した上で判断されるべきことです。そして、メリットの方がデメリットより大きいのであれば自衛のための知識の流布はなされるべきです。
メリットの方がデメリットより大きいのにデメリットのみを問題にして自衛のための知識の流布を批判したり揶揄したりすることは、むしろ、知識の獲得により防げた筈のことを防げなくする問題行為です。
例えば性教育バッシング。未成年の性病や望まない妊娠を防ぐためには性に関する知識が必要として性教育を行なうこと自体が、かえって未成年の性行動を助長しかねないと批判されたりします。しかし、そういう批判は未成年が触れうるメディアにいい加減なものを含めて様々な性情報が溢れており、性教育を行なわないことが性行動の抑止にあまり役立たないということや、性教育により性行動のリスクを知ることが性行動を抑止することがあるということを無視あるいは軽視しています。
私はこういう「自衛のための知識の流布自体が望ましくない事象の模倣を生むため、自衛のための知識を流布してはいけない」という論法を「寝た子をおこすな論法」と呼んではどうかと思います。

*1:2007-01-07のことです。社会心理学の古典「影響力の武器」の紹介記事