論理的推論として正しくても入力された情報がゴミならば結論もゴミ
ネットで慰安婦問題を書かれているブログを読むと、みんな同じ言葉で、同じソースを引用し、同じ結論を、今自分が思いたったような口調で書いているのがどうにも滑稽だと思っておりました。
◆ 美しい壺日記 ◆ 続 従軍慰安婦は強制です
コメント欄より引用。
「みんな同じ言葉で、同じソースを引用し」ているのは、同じようなサイトを情報獲得に利用しているゆえでしょうから不思議なことではありませんし、「同じ結論を、今自分が思いたったような口調で書いている」のにしても、そのようにして入力された情報から論理的推論を行なえばそういう結論に到達するというだけのことで、本人は実際に自分でそういう結論を思いたったと認識していることでしょう。他者のトレースの場合もあるでしょうが。
狭い仲間内だけが情報獲得の手段となることで自ら情報弱者となり、そのようにして獲得した情報に対して懐疑精神に欠けることから「同じ結論」に向けて誘導されてしまうというわけです。
傍から見る分には揃いも揃って偏った情報から同じような偏った結論に到達していて滑稽なわけですが、推論の過程自体は入力された情報に対する論理的推論として正しいがゆえに結論も正しいと本人は認識している状態。
ここで滑稽なことは「揃いも揃って偏った情報を鵜呑みにしている」ことであって、「同じ情報から同じ結論に到達する」ことは別に滑稽ではありません。同じ過程で論理的推論を行なえば同じ結論に到達するのは、むしろ当然のことですから。
注意すべきは情報弱者にならないことと、懐疑精神を忘れないこと。これらは思想立場を問わず重要なことと思います。