歴史修正主義者がしばしばレイシストを兼ねる理由

何故なら彼らが集団と個人の区別をしないから。
彼らが個人の行為を集団の評価に結びつけるから。
そして、彼らが集団の毀誉褒貶を個人の評価に結びつけるから。
ゆえに、彼らの思考では彼らの所属する集団の評価が彼ら自身の自己評価に結びつき、他者の所属する集団の評価が他者への評価に結びつきます。
よって、彼ら自身の名誉のために彼らが所属する集団が不名誉なことをすることはあってはなりませんし、その集団に所属する個人が不名誉なことをすることもあってはなりません。不名誉な行為の存在が否定できない場合は相対化*1により免罪しなければなりません。
その結果、彼らの言動はこうなります。


○○人(彼らが所属する集団)はこういう犯罪はしない。こういう犯罪をするのは××人(彼らが蔑視している集団)だ。
○○人は虐殺なんてしない。そういう残虐な発想は××人のものだ。虐殺は○○人への濡れ衣であり、××人の捏造だ。
○○人がこういう恥ずべきことをしたのは事実だ。しかし、こういうことはどこの国もやっていることで責められるいわれはない。
○○人の誰かがこういう犯罪をしたのは事実だ。しかし、それは犯罪をした個人の責任であり、○○人が責任を負うことはない。××人の誰かがこういう犯罪をしたのは事実だ。××人を「区別」するのは当然のことだ。


ああ、彼らが集団と個人の区別をしないというのは厳密には誤りでした。自分の所属する集団の不名誉になる場合だけ、彼らは集団と個人を切り分けようとします。一方、彼らが所属する集団に属する個人の功績は彼らが所属する集団の名誉にしますし、彼らが蔑視している集団に属する個人の愚行は彼らが蔑視している集団を見下す理由にしますし、彼らが蔑視している集団に属する個人の功績に対しては評価しないため、あるいは彼らが所属する集団への評価にすりかえるための様々な理屈を考え出すか無視します。
結局は彼らの所属する集団に不名誉があってはならないという結論が先にあって、その結論に向かって理屈を捏ねているだけ。彼らの所属する集団に不名誉な歴史や犯罪はあってはならないのです。彼ら自身のために。
何故なら、彼らの所属する集団に不名誉な歴史や犯罪があるということが彼ら自身が迫害される理由になると彼らは考えているから。それは、彼ら自身が所属する集団によって個人を迫害する考えの持ち主だから。(あるいは、そういう所属する集団によって個人を迫害する考えの持ち主がいることを知っているから)
そして、そういう彼らの言動は普通に集団と個人を区別できる人から見れば理解不能な奇行なわけです。


集団と個人に関しては、出自集団や思想集団といった集団と行動集団との区別と、それらの混同の問題があるわけですが、また次回に。

*1:「どこの国でもやっていること」とか