必要なのは懐疑心
ダマシへの対策としてはその種明かしが有効な手段。とはいえ、ダマシに対する種明かしを繰り返すだけでは騙されやすさの克服は困難です。
騙された人に対して種明かしを繰り返しても、それでダマシの手法自体に対する抵抗力を身につけられなくては何度でも似たような手法に騙されてしまうでしょう。むしろ、その繰り返しにより「もう何も信じられない」という猜疑心に凝り固まった状態になってしまうかもしれません。
騙されやすさの克服には予め騙されにくくなることが必要であり、そのためには懐疑心の鍛錬が有効。
ただ、単に懐疑心の鍛錬といっても、よく練られた懐疑心は簡単に身につけられるものではありません。
とりあえず、簡単にできる基本的な方法として「信じる前に三つの確認を行なうこと」を提案します。
その「三つの確認」は「事例の選択は適切か」、「その説で否定される相手は本当にそういう主張をしているのか(前提は正しいのか)」、「反証は可能か」です。
「事例の選択は適切か」
人は「論理的な整合性を持っているように見える新奇な説」に騙されがち。それゆえダマシは自説の論理的な整合性を装います。
自説に適合する事例だけを恣意的に選択して提示することで帰納的に自説が正しいと思わせる手法はその代表例。
対テロ戦争で売り上げを伸ばす米軍需産業 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかでも述べましたが、事実を並べるだけでも嘘は吐けるのです。(これは、論理的な整合性だけでは正しいということにはならないということでもあります)
もちろん、広範な知識があって反例があることを予め知っていれば、そういう手法に騙されにくくなるわけですが、万能な知識を持つことは困難。
ダマシが自説を展開する分野に対する知識が乏しくても仕方がない状況もありえるわけです。そういう場合でも騙されにくくなるための方法は、「事例の選択は適切か」を確認することというもの。提示された事例に偏りが無いか調べれば説の真偽までは分からなくとも、相手の誠実さは分かるというものです。
「その説で否定される相手は本当にそういう主張をしているのか(前提は正しいのか)」
人は「従来の説を否定する新奇な説」に騙されがち。それゆえダマシは従来の説をいかにも非論理的で信用に値しないかのように思わせようとします。*1
ダマシはそのためには従来の説を歪め、勝手な解釈で勝手な定義を行なうことも厭いません(前提が正しくなくても正しいものとしてしまうわけです)。そして、その勝手な定義を否定することで従来の説が間違っているかのように思わせようとするわけです。
「その説で否定される相手は本当にそういう主張をしているのか」を確認し、相手の説を支える根拠も知るようにすれば、ダマシのそういう手口に騙されにくくなります。
「反証は可能か」
ダマシは自らの説が否定できないことをもって、自らの説の正当性を訴えることがあります。*2
確かに否定できなければ、間違っているとはできないわけで、ダマシはそれにより自説に何らかの正当性があるかのように装うわけです。
「反証は可能か」(あるいは、できても非常に困難か)を確認し、反証できない説は論ずるに値しないとすれば、ダマシのそういう手口に誤魔化されにくくなります。
もちろん、これらの方法は万能でも完璧でもありません。特に「反証は可能か」の確認は不適切な場合も結構あります。しかしながら、これらの確認を通るかどうかは、ある説が信用できるか否かの一応の目安とはなるでしょう。
騙されやすさの克服には、人は信じたい情報に対して懐疑心が鈍りがちであることに対する自戒も重要です。さもなくば、そういう心の隙を突かれて騙されてしまうことでしょう。
課題
人は楽な方に流れがち。
人がダマシの説を安易に受け売りしてしまうのも仕方がないのかもしれません。
物事を信じる前に懐疑的に確認するより、それらしい話を鵜呑みにしてしまう方が遥かに楽ですから。
総体としての人は懐疑的な姿勢を身につけるためにコストを支払うことが求められるような方法では騙されやすさを克服できないのかもしれません。
であるならば、多くの人が楽しみつつ懐疑心を鍛錬できるような方法を考案し普及させるというようなことが必要なのかもしれません。
*1:南京事件否定論の「南京の人口は20万人だから30万人も殺せるわけがない」とか。「間違っている論理展開」と「わら人形論法」に耐性の無い人々 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか
*2:従来の説の証明が困難なことをもってくる場合もあります。