マルクスに懺悔する日

私はまた自らの腹黒さと不謹慎さの誘惑に負けてしまいました。自らが発した言葉に対する相手の悪感情による反応を楽しんでいる私をお許しください。とかなんとか。うぎゃー。
ここでいうマルクスマルクス・アウレリウス・アントニヌスのこと。自省録を著した哲人皇帝。
「ふっと自省録の内容を思い出す→自らの行動を鑑みる→凹む」を度々繰り返してしまうんです。
宗教書の教えは全然心に響かなかったりするのですが、自省録の言葉はガンガン響きます。というより、打ちのめされます。
それは、宗教書の教えが多分に「統治の道具」であるのに対し、自省録の言葉は哲人皇帝が自ら思い悩んだ軌跡*1であり、生身の人間の心情の吐露として私の心の中にも同調する部分があるからかもしれないなあなんて思います。
というか、そうでなければこの痛いところを突かれた気持ちは説明し難いです。

腋臭のある人間に君は腹を立てるのか。息のくさい人間に腹を立てるのか。その人間がどうしたらいいというのだ。彼はそういう口を持っているのだ、またそういう腋を持っているのだ。そういうものからそういうものが発散するのは止むをえないことではないか。
曰く「しかしその人間は理性を持っている。だからどういう点で自分が気にさわるか少し考えればわかるはずだ。」
それは結構。ところで君も理性を持っているね。それなら君の理性的な態度によって相手の理性的な態度を喚起したらいいだろう。よくわけをわからせてやり、忠告してやりなさい。もし相手が耳を傾けるなら君はその人を癒してやれるだろう、怒る必要なんか少しもないさ。
悲劇役者でもなければ遊女でもない。

第五巻二八章

自分にとって自然であり有利であると思われるものに向かって行くことを人に許さないのはなんと残酷であろう。ところが人が過ちを犯したといって腹を立てるとき、君はある意味で彼らに以上のごとく振舞うのを許してやらないのである。なぜならば人は一般に自分にとって自然であり有利であることに惹かれるものである。
「ところがそうではないのだ。」
それなら怒らずに彼らに教え示してやるがいい。

第六巻二七章

いかなる出来事にたいしても悲しんだり不服をいだいたりする人間はみな屠られる小豚がじたばたして叫ぶにも似たものと考えるがよい。また寝床の上でひとり黙して我々の不幸を嘆く人間もこれに似ている。さらに思うべきは、ただ理性的動物のみ自分の意志をもって出来事に従うことが許されているが、他のあらゆるものは単なる服従を強いられているということである。

第十巻二八章


ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!(悶絶)
あらためて確認すると本当に凹みます。
にも関わらず、「ふっと自省録の内容を思い出す→自らの行動を鑑みる→凹む→思い出した部分を再確認するために読み直す→せっかく読んだ内容を忘れた行動をする→ふっと自省録の内容を思い出す」という行動を私は繰り返すのでした。(繰り返すなよ)

自省録 (岩波文庫)

*1:ときには自らを鼓舞するために書かれたのではとも思います。