「〜で弱者が死ぬ」「〜が人を殺す」という動員要求

「〜で弱者が死ぬ」「〜が人を殺す」は人権感覚への一貫性を利用した人権派に対する動員要求である。
それぞれの人はそれぞれの関心事にそれぞれのリソースの範囲であたれば良い筈なのだが、「〜で弱者が死ぬ」「〜が人を殺す」という言葉で人権派は人を死から救うために動員要求に応じることを求められ、応じないことをもって「お前らの人権感覚は偽物だ」と嘲られるのである。
近年で言えば、クーラーを使えずに熱中症で死んだ人を挙げて「原発を動かさないと弱者が死ぬ」と言うのがその例であろう。
そして、その例であれば、少なくとも私はその動員要求に応じることはない。
有り余る電力供給があろうと電気を使えるだけの金と道具を持たない弱者が死ぬのであり、電力供給の全てを弱者にまわしても絶対量が足りないという状況でもないのに弱者が死ぬならば強者の電力消費を抑制して弱者に優先的に電力を分配しようとしないから弱者が死ぬのだ。
弱者を死から救うのが目的ならば、為すべきは、弱者が電気を使えるだけの金と道具を持てるようにするような社会保障の強化であり、電気を使えないと死ぬ弱者に優先的に電力を分配できるようにする社会機構の改良というものだろう。原発自体は発電手段の一つにすぎない。
社会保障の強化と社会機構の改良は人権派が取り組み続けていることである。
対して「原発を動かさないと弱者が死ぬ」という人々がそういうような社会保障の強化や社会機構の改良を通しての弱者救済に普段から熱心かといえば、そういうことはないように私には見える。
私達は福島原発事故の際、避難計画の不備で弱者が死ぬのを、汚染地域の被災者が見捨てられて死ぬのを見ている筈だ。被曝労働の理不尽な現状を知っている筈だ。
この状況で原発の再稼働に賛成することは、その人が弱者を死から救うことを目的としていないことの証明だと私は思う。
原発の再稼働を求める人々が、安全対策の不備で原発が稼働できないことに反発する姿や、汚染リスクや避難計画不備などの訴えが認められて原発が運転差し止めになることに反発し、訴えた住民を非難する姿を見れば、こういう人々の「〜で弱者が死ぬ」「〜が人を殺す」という動員要求が人を死から救うこと自体を目的とはしないことは明らかだろう。
つまるところ、「原発を動かさないと弱者が死ぬ」は原発再稼働推進が目的であり、人の死は他者を動員するための手段なのだ。
人権派はそういう人々から動員要求に応じるように、近頃流行な表現で言えば、「〜で弱者が死ぬ」棒や「〜が人を殺す」棒で殴られ続けてきたわけである。


まだ、本調子ではないので、ですます調になおさない。