なぜ人を殺してはいけないか?
既出。
偽哲学者の回答
人を殺してはいけない絶対的な理由は無い。
それは共同体における生存のための総生産と総需要と共同体自体の生存性の問題だ。
生産能力の高い個体を殺してしまうような共同体は共同体自体の生存性を下げてしまい、結果として滅びる可能性が高くなる。ゆえに共同体自体の生存性を高めるために「人を殺してはいけない」というルールが必要となる。
このルールは、生存のための総需要が総生産を上回る場合には、必ずしも適用されない。
その場合、老人や子供といった消費に比べて生産能力の低い個体は抹殺される。姥捨て山や子供の間引きといったように。
むしろ、生存のための総生産が総需要を上回ることが人を殺さずに済む(あるいは人を死に追いやらないで済む)必要条件となる。
生存のための総需要が総生産を上回る場合、総生産の枠からはみ出るものは、座して死を待つか、生き残るために他者から奪うか他者を殺すことで自らの生存に必要な資源を確保するしかない。
共同体の外に飛び出せれば話は別だが、それには相応の資質が必要となる。
生存のためにやむをえない場合、しばしば人殺しは正当化される。ときに共同体同士の資源の奪い合いという側面を持つ戦争でも人殺しは正当化される。
偽善者の回答
人を殺すことが容認される社会では人に殺されることも覚悟しなければならない。
それは、生き延びたければ常に人に殺されないだけの力量と体制を整えていなければならないことを意味する。そのためには、人によっては少なからぬ資源を割かねばならないし、仮にそのようにできたとしても安心して暮らせるとは限らない。
人を殺してはいけないのは、共同体内での生活において、個人の資源を相互に生存のために浪費することを避け、安心して暮らすためだ。
人を殺すことが容認される社会では個人の生存のために相応の資源の消費が必要となる。それは人を殺してはいけない場合は不必要な消費であり無駄だ。この資源の無駄な消費により、人を殺すことが容認される社会では共同体を構成する個人相互での能力補完の利点が大きく失われる。
悪魔による評価
このような問題は太古より言い尽くされている筈だが、未だに提起されること自体が興味深い。
私としては偽哲学者の回答の方を採用する。
最低限、生存のための総生産が総需要を上回らない限り、人と人との「共食い」を止めることはできない。
韓非子にも記述がある。貧しい一家は家族の誰かを切り捨てられなければ一家で共倒れになるしかない。人によっては貧しくとも支えあう家族愛を否定した韓非を冷酷に思うかもしれない。しかし、私は韓非はそう書いたとき心で泣いていたと思う。韓非がその文で意図したことは、そういうどうしようもない状況において必要最小限の犠牲で済ますことであったろうから。