「思いを汲み取れ論」には付帯条件があります

どんな批判に対してもある程度効果的な無効化を図れる論法 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかで解説した「思いを汲み取れ論」には付帯条件があります。
それは、思いを汲み取る対象と感覚が合うこと。
これにより感覚が合わない対象(例えば気に食わない相手)の思いは汲み取る必要が無くなるわけです。思いを汲み取らないのは感覚が合わない対象の方が悪いからというわけですね。
こうすることにより相手の方を悪者にして相手の思いを汲み取ることを拒否することができるわけです。
「対話においては互いに思いを汲み取ることが大事。だから、貴方は私の思いを汲み取りなさい。しかし、私は貴方の思いを汲み取りません。なぜならば貴方の言動は私の感覚に合わないから」*1
人間という社会的生物にとって「互いに思いを汲み取る」ということは概ね大事な規範。
その規範を笠に着て、自分の思いを相手に汲み取るように求めつつ、相手の思いを自分が汲み取ることは感覚に合わないことを理由に拒否すると。随分と都合のいい話ですね。
「思いを汲み取れ論」は結局のところ、一方的に相手にだけに「自分側」の思いを汲み取ることを求めているだけなんです。「思い」を盾に「自分側」の考えを相手に押しつけようとしているだけ。

「思いを汲み取れ論」の目的

「思いを汲み取れ論」を持ち出す方が何を目的としているかは「思いを汲み取れ論」が持ち出される状況を考えれば明らかでしょう。
目的は非難されているものを擁護するため。
「思いを汲み取れ論」は論争において非難されているものを擁護する手段であり、非難されている行動を情によって正当化しようとするものということ。
理によって正当化できないものでも、何とかして人々の共感を得られれば情によって正当化できる場合もあるわけで、「思いを汲み取れ論」の狙いはそれです。

感情論による正当化と感情論の正当化

先人への敬意というのならば、国家の犠牲となった先人への敬意があるからこそ私は戦死を顕彰することで犠牲者の存在に対する戦争指導者への批判を逸らし「英霊の犠牲を無駄にしない」という名目で無謀な戦争拡大の心理的装置を担った靖国神社の欺瞞を批判し参拝に反対するわけです、と参拝反対の理由にも使えますし私にしてみればこっちの方が妥当。

感情論による正当化と感情論の正当化 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

上記引用文は靖国参拝賛成などの理由として先人への敬意を持ち出してきた人に対する私の言葉。
リンク先を読んでもらえれば分かると思いますが、私は先人への敬意という思いをもって参拝賛成の理由とする人に対して、同じように先人への敬意という思いを持ち出すことで対抗するということをしませんでした。
その理由を説明することが、私が「思いを汲み取れ論」に否定的な態度をとる理由のいくつかの説明にもなるので引用しました。
以下にその理由を説明します。

議論が平行線になることを避けるため

「思いを汲み取れ論」に「思いを汲み取れ論」をもって対抗した場合、こちらの出した「思い」に対する相手の対応を大雑把に予測すると以下のようになります。

  1. 思いを汲み取らない(スルーしたり、思いを汲み取らない理由探しをする)
  2. 思いを汲み取る
    1. 思いに基づいた主張は受け入れない(主張は受け入れられない理由探しをする)
    2. 思いに基づいた主張も受け入れる

1にしても2.1にしてもこちらの「思いを汲み取れ論」は無効。2.2の場合のみ有効。
「思いを汲み取れ論」は思いを汲み取らせることが論争を有利に進める*2手段になっている時点で相手が2.2の対応を行なう可能性は低いと考えるのが妥当。
仮に相手がこちらの思いを汲み取ってくれたとしても、その思いに基づいた主張を受け入れてくれる可能性は低く、互いの思いの価値比べなど主張を受け入れられない理由探しが展開される可能性大。
そうなれば、価値観の違いから来る相互の思いに対する評価の違いから決着がつくことはまずありません。
対して、「思いを汲み取れ論」に「思いを汲み取れ論」をもって対抗することをせず、事実から論理的に導き出される現実認識のみを問題とすれば、そういう感情論や感覚論による平行線の議論は避けることができます。

代弁する権利があるのか

これは私的な思いですが、自分自身に「思いを汲み取れ」と言っている対象を代弁する権利があるのかということも問題。引用した話の場合、私自身に戦没者を代弁したいという思いはありますが、別に戦没者に頼まれたというわけではないのですから。
頼まれたわけでもないのに「誰某のためにやっている」とある種の「義務感」や「使命感」を笠に着て話を展開するのは私の性に合いません。
私はそういうことは戦没者を代弁したいと思う自分のためにやっているわけで、そういう自分のためにやっているだけのことで代弁する権利を行使するのはおこがましい行為と思うのです。
個人的な感覚の問題。ゆえに無視されても構わない理由。

異質な他者の思いを汲み取れるのか

「思いを汲み取れ」と言われても相手によっては思いを汲み取るのが困難な場合もあります。
例えば私の場合、似非科学歴史修正主義レイシズム、宗教的信念などに対して思いを汲み取れるかといえば、非常に困難です。
どんなに異質な存在であろうとその思いを汲み取ろうという、ある意味、博愛主義的な言動は理想ではありますが、大抵の人は異質な他者の思いを汲み取ろうとはしません。代表的な異質な他者に対する反応は拒絶したりとか笑いものにしたりとか。
そのようにして、感覚的に受け入れられない異質な他者の思いは汲み取れないのであれば、「思いを汲み取れ論」が通用するのは基本的に感覚を共有できる範囲の人々の間でだけ。
「思いを汲み取れ論」がその程度のものでしかないのであれば、異質な他者との意思疎通には最初から使えはしません。
であるならば、思想信条の異なる異質な他者との対話可能性を模索している人にとって「思いを汲み取れ論」は無意味であり、それを説かれることは迷惑以外の何ものでもありません。
感覚を共有できる人同士で使うのは大いに結構ですので、お好きにどうぞ。

神経を逆撫でする「思いを汲み取れ論」

これも個人的な感覚の問題ですが、「思いを汲み取れ論」は、というか「思いを汲み取れ論」に限らず「感情に訴えかける言葉」で他者を操作しようとする言葉は、その意図次第では私の神経を逆撫ですることがあります。

「英霊たちの多大な犠牲」 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか
上記記事の場合、相手が「英霊たちの多大な犠牲」という「感情に訴えかける言葉」で過去の日本軍の蛮行を糊塗しようとしたことが私の神経を逆撫でしました。
「英霊たちの多大な犠牲」の実態に対して、それを美化して誤魔化しの手段にする無神経ぶりが頭にくるんです。
しかし、そういう情をそのまま表現しても相手には伝わりません。大抵の場合、相手には美化して誤魔化しの手段にしているなんて自覚はないのですから。
相手はこちらに情を解することを求め、こちらの情は解さないという凄まじい一方通行ぶり。それがまた腹立たしかったりするわけです。
そういう一方通行ぶりも私が「思いを汲み取れ論」に対して否定的な理由の一つ。

感情論や感覚論による平行線を避けるために理に徹する

結局、「思いを汲み取れ論」は「自分側」の「思い」を相手に汲み取らせることで「自分側」の行為を正当化しようというもの。「相手側」の「思い」なんてお構いなしなんです。凄い非対称性。(大抵の「思いを汲み取れ論」を使う人はその非対称性に無自覚なようですが)
で、そういう非対称な感情論や感覚論に付きあっても消耗するだけで無意味なわけで、情では相手に通じないからこそ、「思いを汲み取れ論」を否定し、情を心の内に理に徹っさねばならないわけです。

黒蜥蜴氏とid:tasoi氏のやりとりについて

はてなブックマーク - どんな批判に対してもある程度効果的な無効化を図れる論法 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかに始まる黒蜥蜴氏とtasoi氏のやりとりについて。
当サイトで使用しているバナーがきっかけになっているのですが、「思いを汲み取れ論」にも関係しますのでここで取り上げます。

「引いてしまう表現、言説」について。 kurotokageさんとの話。
tasoiさんへの応答 - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴
ID:tasoiの、kurotokageさんとの話の続き。
tasoiさんへの再応答 (1) - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴
tasoiさんへの再応答 (2) - 黒く濁った泥水を啜る蜥蜴
現時点では以上のやりとりが行なわれています。
私が件のバナーを貼った経緯は下記記事を読めば分かると思います。参考までに。
共謀罪の適用基準 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか
バナー賛同します - 模型とかキャラ弁とか歴史とか
長期拘束はそれ自体が洗脳手段となる - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

tasoi氏の人格

tasoi氏は善良な人なのだろうなと思います。
例えば、

・・・「ヒク」「さすがにこれは無い」とか表現すると、ひどいかな?
傷ついたらごめん

とか、

・・・・こうやって片側だけ叩いてると、偏向とか言われるかなあー。
とりあえず、特定の国を叩く意志がTasoに無いことは
前書いたエントリー(朝鮮通信史のとこ)とかからも察して欲しいかも・・・。
難しいなあ(´・ω・`)

http://blog.goo.ne.jp/tasoringo/e/394f31d141bd37f4a76f8e7e695bfbfc

というようなtasoi氏の言葉。
引用した記事の小林よしのりと大差ないように見える慰安婦に対する認識や、「本来は構造的には、左派こそがこの問題に神経質にならなきゃならないはず」という発言*3に見られる責任押し付けぶりはさておき、これらの発言はtasoi氏が自分なりの中立かつ善良であるための基準を持っていて、それに従っている根拠に見えるからです。何故ならば、そういう基準が無ければ、このように基準に叛いた自身の言動に対するフォローの言葉を書く必要はないから。
ただし、それらの言葉は相手に対するフォローではなく、謝罪にしても危害を加える相手に対して「悪く思うな」と言ったりする類いの謝罪なわけで私には欺瞞にしか見えないわけですが。

tasoi氏は程度やバランスというものを重視し、それ自体は概ね正しいことではあるのですが、

・・・というか、『意志に反して』云々ってのは、意志に反してたら駄目ってことかな。
それなら今労働してる人たちの何割が該当するんだろうね。
自分だって、働かずに済むなら働きたくないですwwwwwwwwwうぇ
とりあえず、「全体として意志に反する行為があった」程度なら、どこにでもあって
国を問わずにある話なので、これを問題視するならきちんと平等に全国問題視しましょう。

というのは、程度に含まれる範囲を広げることにより境界を無くしてしまう極論でしょう。
どうやらtasoi氏は「あれを問題視してこれを問題視しないのは程度問題」(境界あり)、「どこにでもある話なのだからあれを問題視するなら全て平等に問題視すべき」(境界なし)というのを使い分ける人のようです。
実に賢明ですね。ただし、それらはどのような場合に使い分けるかから、使い分ける人の偏りが透けて見える両刃の剣だったりもします。*4


含まれる 程度の範囲 広げれば 境界消える 程度問題


関係ないですが、引用したtasoi氏の記事冒頭の寄生虫の話題の元ネタの動画はインチキです。
http://med-legend.com/mt/archives/2007/03/post_1055.html
http://arena.nikkeibp.co.jp/article/col/20070315/121252/

tasoi氏の言葉の定義

tasoi氏のこの言葉には苦笑してしまいました。

↓対話例
たそ「このアレなバナーは何さー?(汗」
亜門「これはその法律とかに対して、よっっっぽどムカついたからやってんだよ」
たそ「うーん、そうなのかあ。丁寧に書いた方が伝わるんじゃないの?」
亜門「放っとけバーカw」
たそ「(`Д´)放っとくよバーカ」
こういう感じに、普通に対話できるんじゃないかな。

「会話する気無いなこいつ、みたいなのがビシバシ伝わってくる」対話例ですね。完全に物別れに終わっている状態。
まあ、確かに「対話」の文字通りの意味は「双方向かい合って話をすること」なわけで、そういう意味ではこういう物別れでも「対話」と見做すことはできるでしょうし、そういう意味であればどんな相手とでも「対話」が可能であろうと思います。
しかし、「対話」の意味するところがそれだけなのであれば、この世に「対話に努める」なんて表現は不要ですね。
そういう意味で「対話」という言葉を使えば、私が元記事で使った「思想信条を越えた対話可能性」という表現も無意味になります。そういう意味での「対話」に思想信条の差なんて関係ありませんから。
tasoi氏のこの応答は「対話」という言葉が使われた文脈を無視しています。「対話」という言葉自体は同じでも文脈上での意味には差があるのに、その境界を無くしてしまう極論。


この「対話例」での役割配分にしても発言内容にしても「思いを汲み取る」といった主張に対して雑すぎるというものでしょう。
tasoi氏の役割は善意の忠告を行なう方。対して私の役割は最初に相互理解を拒否する方。
その過程で行動に至った相手の心情や精神的傾向を汲み取ったとはまったく思えない台詞を私に言わせ、一方的な拒絶をさせているわけです。
こうすればtasoi氏的には、相互理解を求めているのに相互理解が成立しないのは相手の方が悪いからということにできて万々歳ですね。
話す前から相互理解を拒否していなければできない、見事なまでに相手の思いを汲み取っていない役割配分と台詞だと思います。
tasoi氏の「悪意がそんな無いもん」というのは自らの言葉に含まれる悪意に無自覚なだけではないでしょうか。
台詞ですが、実際の私でしたら「丁寧に書いた」例を示すことを求めるでしょうね。そういう風に言う以上はどう丁寧に書けばいいかというのが頭の中にあるはずですから。
で、出してきたものがより効果的と判断すればそちらの方を採用することでしょう。

tasoi氏の基準

tasoi氏の二つの記事を要約すればこうなるでしょうか。
「私がこう思うから、貴方もそのように思いなさい。貴方がそのように思わないのは貴方が程度問題を無視しているからだ」
このように約したのは、記事の内容が「私はこう思う」と「貴方のは程度問題を無視した極論と思う」の羅列だったから。
それはさておき、tasoi氏は程度を問題にしていて、それ自体は良いことだと思いますが、その程度の基準が問題。
程度の基準は徹頭徹尾tasoi氏の個人的感覚、つまりtasoi氏の主観。
他者の意見も引いてはいますが、主観に基づいた意見を補強するために自らの主観に合う意見を集めているだけ。単なる事例の恣意的選択であり、tasoi氏の意見に客観性を付与するものではありません。
程度を判断するに当たって統計的手法などで客観的な基準を設けようという姿勢皆無。
こういうのを見るとtasoi氏の言うところの程度というものが俄然疑わしくなってくるわけです。
自らの主観が中心で、自らの感覚に合うのは「バランスが取れている」、自らの感覚に合わないのを「バランスを欠いている」と表現しているだけではないかと。
そういう風に自らの主観を中心にしているから自らの偏りに無自覚でいられるのではないかと。

「引いてしまう表現、言説」での程度の基準にしても、tasoi氏の感覚に合うか否かによって、つまりtasoi氏の主観によって、思いを汲むか汲まないかが決まるわけです。
tasoi氏の主観で憎悪や悪意を感じるああいうバナーはひく。ひいてしまう表現に対しては思いを汲み取る必要はない。だから思いを汲み取らないと。
なんとまあ恣意的な。
そういう風にして憎悪や悪意が思いを汲み取ることを拒否する理由になるのならば、当然、「素朴な正義感でリンチを行なう人々」が示した憎悪や悪意を理由に思いを汲み取ることを拒否しても構わないということになります。
「素朴な正義感でリンチを行なう人々」の度を越えた「『憎悪の壮絶な渦巻きっぷり』に、すごく驚くし混乱するし、口がぽかーんとなる(´・ω・`;)」のでひいてしまい、その思いを汲み取ることを拒否しても問題なし。
「素朴な正義感でリンチを行なう人々」の思いを汲み取ることを求める一方で、「度を越えた憎悪や悪意を感じるバナーを貼っている人々」の思いを汲み取ることを拒否するなんていうのは、自らの恣意性に無自覚でなければ出てこない言葉というものでしょう。


しかしまあ、こういう基準はある意味、実に素晴らしいです。私も早速使ってみたいと思います。
「素朴な正義感でリンチを行なう人々」の行動に見られる度を越えた憎悪と悪意にひいたので、「思いを汲み取って欲しい」と言われても、そういう人々の思いは汲み取りません。
「思いを汲み取れ論」なんて無効で無意味で相手にする価値なし。つべこべ屁理屈を捏ねられても相手にする必要が無くなって、めでたしめでたし。

*1:類似しているものに「人の話を聞くことは大事。だから、私の話を聞きなさい。しかし、貴方の話は聞きません。なぜならば、貴方の話は無知と悪意によるもので聞く価値がないから」というのもあります。

*2:論争に勝利すること、もしくは論争に負けないこと

*3:気に入らないものに対して文句を言いたいだけの人や、人に何かをやらせて自分は文句を言うだけの楽な立場に置きたがる人がよく使う種類の言葉。

*4:自らの偏りに無自覚なのかなとは思いますが。