大戦前のユダヤ人移住の困難性

海外への移住、逃亡

ナチ政権成立と同時に、ドイツのユダヤ人(およそ五十万人強)は多かれ少なかれ海外への移住、逃亡問題との葛藤に悩まされた。すでに広く出まわっていたヒトラーの『わが闘争』などにより、ナチ政権がユダヤ人に対しどんなことを考え、主張しているか、ドイツのユダヤ人にはよくわかっていた。
しかし、ドイツに生まれ育ったユダヤ人にとって、母国はあくまでもドイツであり、自分達がドイツ人であることを少しも疑っていなかったのである。
彼等にとって、見知らぬ海外への移住、逃亡を決意することは、決して容易でなかった。特に、中年以上の年輩の人にとっては、たとえパレスチナユダヤ教のふるさとであろうと、異郷の地には変わりなく、移住の決断がなかなかできないのが実情であった。
したがって、ユダヤ人は一般に若い息子や娘、孫などを海外へ移住、逃亡させ、年寄りはドイツに残るという方法をとるものが多かった。まして、絶滅にまで引っぱりこまれるなどとは思いもよらなかったからである。
著名なユダヤ人になればなるほど危険度が高かったので、早期にドイツを脱出する必要があったし、またそうした。左翼系の政治活動をしていたユダヤ人は、ナチ政権成立と同時に逃亡せざるを得なかったことはいうまでもない。
また、高学歴の待ち主である医者、弁護士、学者、教師などのアカデミカーは早く職場から締め出されたため、早期に外国へ移住した者が多かった。金持ちユダヤ人が容易に早く外国へ逃亡できたのは当然であった。

困難な移住条件

しかし外国への移住には、次の条件が揃わねばならず、そう簡単ではなかった。
一、受け入れ国の了解を得ること(入国ビザの取得)。
二、移住先国に肉親又は知人がいて移住希望者の受け入れを保証すること。
三、移住先国で生活できることを示す所持金証明。
四、ナチ当局より出国が許可され、パスポートの給付を受けられるもの。
五、当時の少ない、かつ不便な交通手段(船か汽車)の確保と高い渡航費の支払い。
六、国によっては(たとえば、アメリカやアルゼンチン)、職人や農業技術を身につけたユダヤ人の若者の移住を要望するところもあった。
これらの諸点は、それぞれみな問題をかかえていた。
主な出国先はパレスチナアメリカであったが、世界経済恐慌でたくさんの失業者をかかえていたアメリカをはじめ、ヨーロッパ諸国、イギリス、フランス、スイス、スカンディナヴィア諸国などはユダヤ人の移住制限を行っていたし、ドイツからのユダヤ人の流入に対する激しい反対デモさえあった。そのため、中には農業開発移住としてアルゼンチン、ブラジル、オーストラリアヘ移住するユダヤ人もいた。
そして先の年表で見たように、しだいにテンポを早めていったユダヤ人への規制、迫害下で、諸条件を満たさなければならない移住手続きが徐々にむずかしくなるにつれて、移住手続きはしだいに逃亡、亡命へと変化していったのである。結局、ユダヤ人はどこの国へ行っても歓迎される状況にはなかった。
パレスチナヘの移住も、管轄国イギリスが対アラブ政策上ユダヤ人に制限を加えていたし、船でおしかけたユダヤ人がイギリス兵によって追い返されるということもあった。
それでも、ナチ政権の当初の要求「ユダヤ人が一日も早くドイツを去ること、ユダヤ人のドイツからの除去」という出国奨励策の結果、一九三三年から三四年までに六万人がドイツを去った。
先の諸条件を満たす手続きをして、海外へ移住できたものはまだまだ幸せであった。
移住手続きの上で大きな役割を果たしたのが、ユダヤ人自身がアメリカなど外国に住むユダヤ人の資金援助などを得て組織した移住のための援助団体(ヒルフスフェライン)であった。この団体はドイツ各地に相談所を設け、移住先国の条件の紹介、その手続き、渡航費用の援助、旅券の世話、渡航船のチャーターなどを組織し、代行した。こうしたユダヤ人自身の涙ぐましい自助努力により、少なくとも一万人のユダヤ人がドイツを脱出するのに成功したといわれる。
ナチ政権による公的なユダヤ人の外国移住奨励策は、明らかにユダヤ人財産の没収を意図していた。海外への現金や物品の待ち出しは大幅に制限され、時の経過とともに厳しさを増していった。
一九三八年には外国為替用に払い込んだライヒスマルクに対し、わずか十八パーセントの外貨しか支給されず、これは後に四パーセントに減らされ、最後には出国ユダヤ人の封鎖されたマルク残高は全て没収された。また、出国先への送金于続きの際には、ドイツの産業復興奨励の名目で強制投資をさせられ、送金のうちから一定額を差し引かれた。待ち出しを許される物品は、身のまわり品のみとされた。
移住者の波は、一九三五年九月のニュールンベルク法でユダヤ人が市民権を剥奪されてから増加するが、特に一九三八年十一月の大迫害、ライヒスクリスタールナハト以降は逃亡としての出国者(旅行者などとして)が急増した。ベルリンの海外旅行代理店の前に殺到し、行列をつくる当時のユダヤ人の姿の写真は、実になまなましい。
旅行者として海外へ出るということは、着の身着のままで逃亡することで、全財産を置き去りにすることを意味した。

不十分だった各国の救済策

少なくとも第二次大戦前までは、ナチ政権によりユダヤ人をドイツおよびその他の支配地域から追い出す政策が積極的にとられた。
たとえば一九三八年三月、第三帝国に併合されたオーストリアのウィーンでは、ナチ国家保安警察庁長官R・ハイドリッヒにより、ユダヤ人を半ば強制的に除去するためのユダヤ人移住センターが設けられ、ユダヤ人減らしが盛んに行われた。その結果、一九三八年から翌年の一年間にオーストリアから十万人のユダヤ人が追放された。
こうした各国へ移住、逃亡しようとする多大な数のユダヤ人難民を救済する目的で一九三八年七月、アメリカの大統領ルーズベルトの呼びかけにより、フランスのアヴィアンで国際難民会議が催された。この会議にはヨーロッパ内外の三十二カ国の代表及びユダヤ人組織のオブザーバーが参加した。ナチドイツぱ公式に代表を送っていなかったが、参加各国の代表に対し次のことを知らしめている。
つまり、ナチスは移住を準備しているドイツやオーストリアユダヤ人から財産を残らずまきあげるのみならず、ユダヤ人の移住先国より《輸出関税(出国許可税)として》一人につき二百五十ドルを要求する旨を伝えた。
この法外な要求は、全ての参加者により《人身売買》であるとして拒否された。
もちろん、諸国のこの態度は正しかったのである。しかし実際には、この拒否によって、当時なおドイツ、オーストリアに残っていた三十五万人のユダヤ人を政う道が大幅に閉ざされたことも忘れてはならない。
この会議の失敗の裏には、世界経済恐慌により各国がかかえていた経済問題や失業者問題があり、避難民としてのユダヤ人受けいれが容易でなかったという実情があった。しかし、それだけが理由とは思えない。
やはり欧米諸国にそれとなく共通して存在したアンティセミティズムの風潮と、入国を企てるわずらわしいユダヤ人という考えが、ユダヤ人の危機を政おうという熱意をそいでしまったと思われる。
実際、ナチ政権による反ユダヤ政策がドイツで開始された時、アメリカをはじめヨーロッパ諸国はユダヤ人に同情し、いっせいに非難ののろしをあげはしたものの、かけ声だけに終わってしまった。
ドイツ商品のボイコット運動やナチドイツの外交を孤立させるなど、多少の効果はあったものの、第三帝国の軍事力と支配の拡大にともない、ドイツは各国より協定や条約のパートナーとして求められるようになり、ナチ政権の反ユダヤ政策はしだいに国際的な関心からはずれていってしまったのである。また、ヒトラー政権に対する各国の非難もまちまちで、一つのまとまった国際運動に発展しなかった。
第二次大戦中の米国政府によるヨーロッパユダヤ人の救済政策の手ぬるさを厳しく批判した歴史家ダヴィッド・S・ウェイマンの『招かれざる民−アメリカとヨーロッパユダヤ人の虐殺』は、現代に生きるわれわれ一人一人にとってよい反省の材料である。
ドイツとオーストリアにいたおよそ七十万のユダヤ人のうち、その半数が大戦開始前までに外国へ移住、逃亡した。そのうちアメリカが十万人、パレスチナが十万人弱、イギリスは五万人、そしてその他の諸国が五万人弱のユダヤ人を受けいれた。残る三十万ほどのドイツとオーストリアユダヤ人の多数が、ナチによる絶滅計画の犠牲になることになる。
そして大戦の開始によって、ドイツの支配下にはいったポーランドヘ向けて、各地からユダヤ人の強制輸送が始まる一九四一年十月には、第三帝国支配下の地域からのユダヤ人の移住は禁止され、海外への逃亡の道は全く閉ざされることになるのである。

ユダヤ人とドイツ(講談社現代新書)P184-190より。
ユダヤ人とドイツ」は反ユダヤ主義のもとユダヤ人がいかに非人間として扱われ人権の無い存在として迫害されてきたかについて、簡潔ながらまとまった記述がなされている本。ヒトラー反ユダヤ主義に傾倒していく過程の概略が記述されているヒトラーとユダヤ人(講談社現代新書)とあわせ、ホロコーストに関する入門的知識と意図派の解釈について知るには手頃な本ではないかと思います。
さて、歴史の教訓とすべき人類史の悲劇が大袈裟な罵倒と解釈されてしまう件 - 模型とかキャラ弁とか歴史とかに対する反応を含め、「ユダヤ人を収容所に移送して虐殺するより財産を没収して国外追放する方が合理的」というような意見があるわけですが、そういうのは「財産を没収して国外に「厄介払い」するにしても「移住先」を用意しなければならない」ということが失念されているのではと思うんですね。
引用文を見れば分かるようにナチスにしても最初から虐殺していたわけではありません。財産没収手段も兼ねて出国奨励策をとっていたわけです。
その後のマダガスカル計画や東方移送計画にしても「移住先」を用意する手段だったわけです。
簡単にでも良いですから歴史をたどって行けば、ナチスが虐殺に至る過程は選択肢が失われていく過程というのが分かると思うんですね。
開戦や戦況の推移といった状況の変化に伴い選択肢が失われていった結果、国外に「厄介払い」するという選択肢が失われた結果の、効率的に管理し労働力として活用するための収容所送りであり、「労働不能」な「役立たずの無駄飯食い」を処理するための虐殺であったわけです。
とりあえず、ホロコーストが選択肢が限られていくなかでの合理的選択としてなされたということは記憶に留めていただければなと思います。
それは誰もが「アイヒマン」に成りうるということを示しているというものですから。