当事者なのに当事者として行動しない人の存在は腹立たしいが仕方がない

id:mojimoji氏の下記コメントに対する私なりの回答です。

僕の記事が、D_Amonさんへの批判になっているかどうかは、そうなりえる、という認識を持っていることを表明しておきます。D_Amonさんの中には、観客席を容認していると読めるところと、それに反発しているところの、両方があるように見えますから。だから、僕の記事ではリンクを明示していません。後はD_Amonさんが整理して考えることだと思いますので。

私自身は「観客席」という言葉で表現されるものを不快に思っていますが、それを求める人がいるのは仕方がないと思っています。
例えば労働問題。
御用組合ではない労働組合のある職場で労働問題の当事者である労働者でありながら労働組合に加入しない人がいます。
労働組合に加入している私から見れば、そういう人の存在は腹立たしいわけです。そういう人は組合費と組合活動という負担を負わずに、組合活動により獲得した労働条件の改善を享受できるわけですから。
加入しないだけならまだしも、「観客席」目線*1でわざわざ組合活動自体をバカにしにくる人もいるので尚更腹立たしい。
職場環境的に必然として発生した事故の責任を追求されて起訴された労働者の支援と裁判費用の工面とか、理不尽な解雇や転勤や配置換えの撤回とか、組合は色々労働者のための活動をしているというのに。
あまりに腹立たしいので、非組*2の人が、いざそういうことの当事者となってから庇護を求めて組合に入ってきたときとか、「未加入だった時期も含めて組合費を支払え」と言いたくなります。言いませんけど。組合の目的は労働者の保護と待遇改善であり、組合費は活動のための手段ですから。
その一方で組合に入りたくない気持ちも分からないでもないのです。私自身、組合費と組合活動の負担を重荷に思いましたから*3。労働問題において労働組合はそういう負担があるという必然的でどうしようもない戦略的な不利を抱えているわけです。
それでも、そういう重荷を背負うのは「自分」を救うために必要と思ってればこそなんですね。「自分」を救いたいという欲求があり、その欲求が労働組合加入による負担感を上回っているからこそ負担に納得できるわけです。
そのような自分が労働組合に加入している理由を考えれば、そうでない人が加入しないのは仕方がないと思うのです。

人は基本的に楽な方に流れる生き物。やらないことを正当化してくれる言葉、当事者である責任を他者に転嫁してくれる言葉、当事者でありながら当事者意識を持たないで済む言葉、面倒なことを他人任せにすることを正当化してくれる言葉に弱い人がいるのは当然のこと。
現実が変わることを望む一方で、その当事者として行動する負担をしたくない人がいるのも当然。当事者として行動することを求める言葉に対して拒否反応を示す人がいるのも当然。仕方がないことなのです。当事者として行動すること自体を非難する人もいるくらいです。*4

そして、現実が変わることを望む一方で、その当事者として行動する負担をしたくない人がいる以上、当事者として自ら為さなければならないことを代わりにやってくれる「メシア」が登場することを願う人がいるのも当然。
「左派に期待している人」とは何かといえば、当事者として自ら為さなければならないことを誰かが代わりにやってくれることを期待している人であり、この場合は左派に「メシア」として振舞うことを求めている人なわけです。
当事者であり当事者として自らが為すべきことを為す人は、左派がどうのこうのとは関係なく行動するわけで「観客席」になんかいません。
「観客席」にいるのは当事者でありながら当事者として行動せず、自らが為さなければならないことを誰かに代わりにやってもらいたがっている人です。
そういう人は当事者でありながら最初から運動の外にいる人です。その位置は外から運動を嗾けたりバカにしたりするだけという楽な場所だけに魅力的であり、そういう人はその気楽な場所から動きたがりません。いや、「観客席」という気楽な場所にいることを後ろめたく思っている場合、「観客席」にいる自らを正当化するために、尚更、運動の価値を認めている振りをして運動を嗾けたり、逆に運動の価値を認めずにバカにしたりするのです。*5

そのようにして、労働者当事者であるにも関わらず「自分」を救うための活動であることが明確な組合活動ですら加入せず「観客席」に留まる人がいる状況なのですから、「他者」を救うという海外の人権問題に対しては尚更「観客席」に留まりたがる人がいるのも当然と思うのです。
イラクでの邦人人質事件で有名になった高遠菜穂子氏はイラク人道支援活動をしていたわけですが、彼女に対する様々な非難の中には「海外の人を救うより同胞である国内の人を救え」というようなものもありました。それは海外の人権問題に取り組む人権団体にしばしば浴びせられる言葉でもあるわけです。
そういうことを言う人にとって海外の人権問題は「自分」のことではないのです。
そのように海外の人権問題を「自分」のことと思わない人には、そもそも海外の人権問題に対して当事者意識を持ってもらうことが無理。当事者意識の無い人に当事者として行動してもらうのも無理。
であるならば、国内の労働運動以上に「観客席」に留まる人がいるのも(腹立たしいことではありますが)仕方がないことと思うのです。

*1:「フィールド」の中にいる労働者なのに!

*2:労働組合に加入していない人のこと

*3:特に給与が少なかった新人の頃

*4:http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/976139.html

*5:そういう人のメシア待望願望と当事者意識欠如に対する風刺がサヨクからのお別れの言葉 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか